第4話 好敵手はここに出会う

 長江の下流域は江南と呼ばれ、古代より国の興亡が繰り返されている。

 えつ、そして。いずれも強国として一度は中原に覇を唱えたが、すぐに衰退し、その栄光は長く続かなかった。

 将兵の勇猛さでは群を抜くが、北方の諸国から見ればその文化はやや異質であり、それが覇者としてついに受け入れられなかった理由かもしれない。


 この時代、長江より北の広大な土地は、漢の丞相となった曹操が実質的に支配している。そして、呉と呼ばれる地域に勢力を伸ばしているのが孫権だった。

 父・孫堅、兄・孫策の後を継いだ孫権は、この二人ほどに軍事的な冴えはない。だが堅実に江南の地を固め、曹操も無視できない程の一大勢力となっていた。


 そしてついに両者が激突したのが赤壁の戦いだった。

 劉表亡き後の荊州を降伏させ強大な水軍を手に入れた曹操は、その矛先を呉に向けたのだ。

 巨艦を並べ要塞化した曹操軍を火攻めで撃破したのが、呉の水軍都督、周瑜しゅうゆである。季節外れの南東の風に乗り、炎は曹操軍を灼き尽くしたのだった。



「で、その風を起こしたのが私なのですよ、向寵どの」

 得意げな顔で諸葛孔明はふんぞり返った。

「私がちょいと祈ったら、すぐに天神地祇もそれに応じてくれるのだものなぁ、ちょろいものですねぇ」

 ほほほ、と笑っている。


 向寵は不愉快な表情を隠さなかった。彼女たちにゃお族にとって、天の神は信仰の対象である。時に理不尽な災害をもたらすにしても、それは神の為す事であり決して恨むことはない。だがこの男のように天を利用するというのは理解の外だった。

「こいつ、絶対に罰が当たるぞ」

 それも一番願いを叶えて欲しい時に。だって、天とはそういうものだから。



 地図を拡げた卓の上に頭を寄せ合い、その男たちは暗い表情をしている。

「おのれ、劉備。周瑜が病に倒れたのを知って蜀へ向かうとは、何と卑劣な」

 最も若い男が血を吐くような声で言った。彼がこの江南地方の豪族連合の盟主、孫権だった。


 碧眼へきがん紫髯しぜんというから、目は青く、ヒゲは紫色ということになる。これは後の呉の皇帝、孫権を描写した文句だ。現代ならアニメの登場人物などで珍しくはないが、この当時としてはまさに異色だったろう。


「ですが劉備も、蜀を獲れば荊州は返すと言っておりますから」

 そう言って場を取りなすのは魯粛ろしゅくという男だった。人望、実績から周瑜の後継者と目されているが、孫権の側近の中では最も親劉備派で通っている。武人というより政治家の色合いが濃い男だ。


 そこへドスの効いた声が響いた。

「信用はなりませんぞ、殿。今のうちに釘を刺しておかねば」

 うむ、と顔をあげた孫権は、悲鳴を上げるのを辛うじて押し殺した。


 彼の正面に立つ男。黥面文身げいめんぶんしん、顔はおろか破れた服の袖から覗いた腕も魚の鱗を模した刺青が見える。裸になれば全身をそれが埋め尽くしているのが分かるだろう。心の準備なしに見ると、いかに豪胆な孫権でも魂消ることになるのだ。

「お、おう甘寧かんねい。そうであるな。いちど使者を送るとしよう」


 甘寧 字は興覇。劉表配下の河賊だったが、現在は孫権の許で勇将として名をはせている。逆立った髪を橙色に染めているのは、魚の背鰭を表現しているのだという。もう、見るからに毒魚だった。


 この男も昔はお洒落な衣装をまとった伊達男だったのに……。孫権はそっと目を逸らした。

 どこかで道を誤ったのだろう。いつからか東夷の習俗にはまりはじめ、ついには、こうなったのだった。傾奇者の元祖といえるかもしれない。


「だが、奴らが蜀を奪うのは支援してもいいでしょう」

 甘寧は意外とも思える事を言を言い始めた。

「なぜなら蜀はあまりに遠い。直接支配するには、我が呉の国力では負担が大きすぎましょう」

 これを病床にある周瑜が聞けば激怒するかもしれない。周瑜は強硬な蜀奪取論者だったからだ。


「なので、蜀は同盟国とすれば、それでよい」

 信義だけで世を渡っている劉備なら、それで大きな問題は起きないだろう。

 魯粛は頷きながら、この異形の男を見直す思いだった。

 一般に「天下三分の計」とは諸葛孔明が唱えた事になっているが、もっと早くから甘寧はそれを考えていた。これは長江で生きる河賊ならではの発想だったろう。


 長江を遡れば、三峡を越え、蜀に至る。

 その地勢的感覚を最も身につけていたのが、この甘寧という男だった。

「そのためにも、絶対に荊州は取り戻さねばなりません」

 甘寧は刺青の顔で、表情を引き締めた。



「しかし、遅きに失しましたな」

 残念そうに顔をしかめるのは重臣の諸葛謹だった。

「劉備はすでに蜀へ向かったとの事。居残る連中と話をしても……」


 首を振る諸葛謹に魯粛は皮肉な笑みを向けた。

「いやいや、諸葛謹どの。荊州を任されているのは、あなたの弟君だと伺いましたぞ。名前は、そう諸葛亮とか」

「おお。劉備とは水魚の交わりを結んでいるらしいではないか。ならば劉備本人と同じと云っても過言ではあるまい。……よし、では諸葛謹よ、我が使者として荊州へ行ってくれ。副使として甘寧をつけるぞ」

 嬉しそうに孫権が言う。

 

 諸葛謹はあからさまにうんざりした顔になった。実のところ、幼い頃に別れたこの弟とは今まで何度か会った事があるものの、どうにも苦手だった。性格が合わないのだ。

 だが孫権の依頼を断る訳にもいかない。諸葛謹は渋々、承諾するしかなかった。


 ☆


「ほう、孫権どのからの使者が参っていると」

 諸葛孔明は荊州に居残る文官、武官を集め、それを迎える。向寵は向朗や馬良と共にその列に並んでいた。


 大広間に、孫権からの使者が招き入れられた。

 正使は諸葛謹、副使は甘寧である。

 諸葛孔明は兄であるというこの使者を丁重に迎えた。


「おじさま、あの男」

 向寵は甘寧の姿に目を奪われていた。小声で隣の向朗にささやく。

「あれが書物に出て来る半魚人というものでしょうか」

「うん。わたしも初めて見るなぁ」

「違います、あれは刺青というものです」

 物知りの馬良がすかさず訂正する。


 ほう、そう言って向寵はよだれを拭った。

「あれって、食べられますか。おじさま」

「まさか。あれは本物の魚ではないからむりだろう」

 向朗は苦笑する。


 使節団の中に、まだ少年といっていい男が混じっていた。彼は広間を見渡し、向寵に気付いた。ふーん、と少しだけ笑みを浮かべる。

 視線を受けた向寵もその少年を見て、軽く会釈を返す。


「へえ、あんな子もいるんですね」

 向寵は少し不思議な思いがした。

「あんなに若いのに使節団に選ばれるとはな。きっと名家の子供なのだろう」

 向朗は感心した声で答える。


 その少年、陸遜りくそんは静かに諸葛謹の後に続いていく。


 後に、呉討伐に向かった蜀軍を壊滅させた名将と、蜀軍最後の砦となった女将軍の、これが最初の出会いだった。

 


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