第4話 好敵手はここに出会う
長江の下流域は江南と呼ばれ、古代より国の興亡が繰り返されている。
将兵の勇猛さでは群を抜くが、北方の諸国から見ればその文化はやや異質であり、それが覇者としてついに受け入れられなかった理由かもしれない。
この時代、長江より北の広大な土地は、漢の丞相となった曹操が実質的に支配している。そして、呉と呼ばれる地域に勢力を伸ばしているのが孫権だった。
父・孫堅、兄・孫策の後を継いだ孫権は、この二人ほどに軍事的な冴えはない。だが堅実に江南の地を固め、曹操も無視できない程の一大勢力となっていた。
そしてついに両者が激突したのが赤壁の戦いだった。
劉表亡き後の荊州を降伏させ強大な水軍を手に入れた曹操は、その矛先を呉に向けたのだ。
巨艦を並べ要塞化した曹操軍を火攻めで撃破したのが、呉の水軍都督、
「で、その風を起こしたのが私なのですよ、向寵どの」
得意げな顔で諸葛孔明はふんぞり返った。
「私がちょいと祈ったら、すぐに天神地祇もそれに応じてくれるのだものなぁ、ちょろいものですねぇ」
ほほほ、と笑っている。
向寵は不愉快な表情を隠さなかった。彼女たち
「こいつ、絶対に罰が当たるぞ」
それも一番願いを叶えて欲しい時に。だって、天とはそういうものだから。
☆
地図を拡げた卓の上に頭を寄せ合い、その男たちは暗い表情をしている。
「おのれ、劉備。周瑜が病に倒れたのを知って蜀へ向かうとは、何と卑劣な」
最も若い男が血を吐くような声で言った。彼がこの江南地方の豪族連合の盟主、孫権だった。
「ですが劉備も、蜀を獲れば荊州は返すと言っておりますから」
そう言って場を取りなすのは
そこへドスの効いた声が響いた。
「信用はなりませんぞ、殿。今のうちに釘を刺しておかねば」
うむ、と顔をあげた孫権は、悲鳴を上げるのを辛うじて押し殺した。
彼の正面に立つ男。
「お、おう
甘寧 字は興覇。劉表配下の河賊だったが、現在は孫権の許で勇将として名をはせている。逆立った髪を橙色に染めているのは、魚の背鰭を表現しているのだという。もう、見るからに毒魚だった。
この男も昔はお洒落な衣装をまとった伊達男だったのに……。孫権はそっと目を逸らした。
どこかで道を誤ったのだろう。いつからか東夷の習俗に
「だが、奴らが蜀を奪うのは支援してもいいでしょう」
甘寧は意外とも思える事を言を言い始めた。
「なぜなら蜀はあまりに遠い。直接支配するには、我が呉の国力では負担が大きすぎましょう」
これを病床にある周瑜が聞けば激怒するかもしれない。周瑜は強硬な蜀奪取論者だったからだ。
「なので、蜀は同盟国とすれば、それでよい」
信義だけで世を渡っている劉備なら、それで大きな問題は起きないだろう。
魯粛は頷きながら、この異形の男を見直す思いだった。
一般に「天下三分の計」とは諸葛孔明が唱えた事になっているが、もっと早くから甘寧はそれを考えていた。これは長江で生きる河賊ならではの発想だったろう。
長江を遡れば、三峡を越え、蜀に至る。
その地勢的感覚を最も身につけていたのが、この甘寧という男だった。
「そのためにも、絶対に荊州は取り戻さねばなりません」
甘寧は刺青の顔で、表情を引き締めた。
「しかし、遅きに失しましたな」
残念そうに顔をしかめるのは重臣の諸葛謹だった。
「劉備はすでに蜀へ向かったとの事。居残る連中と話をしても……」
首を振る諸葛謹に魯粛は皮肉な笑みを向けた。
「いやいや、諸葛謹どの。荊州を任されているのは、あなたの弟君だと伺いましたぞ。名前は、そう諸葛亮とか」
「おお。劉備とは水魚の交わりを結んでいるらしいではないか。ならば劉備本人と同じと云っても過言ではあるまい。……よし、では諸葛謹よ、我が使者として荊州へ行ってくれ。副使として甘寧をつけるぞ」
嬉しそうに孫権が言う。
諸葛謹はあからさまにうんざりした顔になった。実のところ、幼い頃に別れたこの弟とは今まで何度か会った事があるものの、どうにも苦手だった。性格が合わないのだ。
だが孫権の依頼を断る訳にもいかない。諸葛謹は渋々、承諾するしかなかった。
☆
「ほう、孫権どのからの使者が参っていると」
諸葛孔明は荊州に居残る文官、武官を集め、それを迎える。向寵は向朗や馬良と共にその列に並んでいた。
大広間に、孫権からの使者が招き入れられた。
正使は諸葛謹、副使は甘寧である。
諸葛孔明は兄であるというこの使者を丁重に迎えた。
「おじさま、あの男」
向寵は甘寧の姿に目を奪われていた。小声で隣の向朗にささやく。
「あれが書物に出て来る半魚人というものでしょうか」
「うん。わたしも初めて見るなぁ」
「違います、あれは刺青というものです」
物知りの馬良がすかさず訂正する。
ほう、そう言って向寵はよだれを拭った。
「あれって、食べられますか。おじさま」
「まさか。あれは本物の魚ではないからむりだろう」
向朗は苦笑する。
使節団の中に、まだ少年といっていい男が混じっていた。彼は広間を見渡し、向寵に気付いた。ふーん、と少しだけ笑みを浮かべる。
視線を受けた向寵もその少年を見て、軽く会釈を返す。
「へえ、あんな子もいるんですね」
向寵は少し不思議な思いがした。
「あんなに若いのに使節団に選ばれるとはな。きっと名家の子供なのだろう」
向朗は感心した声で答える。
その少年、
後に、呉討伐に向かった蜀軍を壊滅させた名将と、蜀軍最後の砦となった女将軍の、これが最初の出会いだった。
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