第3話 猛将だって癒されたい

 ごろごろごろ。

 向寵の部屋から地響きのような音がする。ちょうど前を通り掛かった馬良は慌てて扉をあけた。

「な、なにっ?」

 真っ白な眉毛の下で、目が大きく見開かれた。


 床に跪いた向寵のちいさな膝の上に、トラひげのむさ苦しい頭が乗っている。雷の様にも聞こえるその音は、張飛の太い喉から出ているのだ。


「張飛将軍、何をしていらっしゃるのですか」

 しーっ。向寵が唇に指をあてて、馬良に目配せした。張飛は目じりを下げ、幸せそうな顔で眠っているのだった。


 大広間での一件以来、張飛は向寵の子分のように、彼女の後をついて歩くようになった。それはすぐに襄陽城内の噂になった。

「あの娘は一睨みで、猛将張飛を手なずけたらしい」

 というのだ。確かに間違いではなかったような気がするが。


(猛獣使いか、この娘は)

 馬良は背筋を震わせた。

 その時、彼の背後で扉が勢いよく開いた。

「やはりここだったか、張飛! おおう向寵どの、わしも膝枕をしてくれっ!」

 関羽だった。


 だが関羽は、馬良に気付くと顔を赤くして、わざとらしく咳払いをする。

「え、えへん……。これ、張飛。兄者がお呼びだ。とっとと行かんか」

 ふえ…、と寝ぼけ眼で張飛が起き上がり、のろのろと部屋を出て行く。


 関羽と馬良の眼が合う。

「お、おう。そうだ、わしも行かなくてはな。失礼、失礼」

 こそこそと関羽も張飛の後を追う。

 それを馬良は茫然と見送った。

 今、完全に劉備の用事より向寵の膝枕を優先しようとした男がいる。


「向寵どの……あなた、凄いですね」

「そうですかね」

 向寵は不思議そうに小首をかしげた。

 いや、劉備の配下がみんな少女趣味ろりこんなのだろうか。もしかしたら仕える主を間違えたかもしれない……、馬良は眉間を押えた。


 そういえば最近、向寵は過剰な警戒心が消え、よく笑うようになった。

 これが彼女の本当の姿なのだろう。そう思うと馬良も自然と笑顔になるのだった。だが、とそこで口元を引き締める。

(わたしは、決して少女趣味ではないけれどもな)


 ☆


「という事で」

 いきなり何の前置きも無く、諸葛孔明がしゃべり始めた。

 先日の大広間に、劉備陣営の主要な武将たちが集まっていた。


「これより主公、劉備さまと共に蜀へ向かう陣容を発表します」

 ざわざわ、と声が広がった。

「静かに。……皆様、蜀へ行きたいと思っておられるでしょうな」

 当然だ、と声が上がる。孔明は小さく首を振った。


「声が小そうございますな。もう一度、訊きますぞ。……蜀へ行きたいかっ!」

「応っ!」

 広間を揺るがす叫びに、孔明も今度は満足げに頷いた。


「いいでしょう。では第一問です」

 背後で銅鑼が鳴った。

「ちょっとお待ち下さい、諸葛先生。何が始まるのです。まさか蜀へ向かう道々で、こうやってひとりひとり振り落としていこうというのでは在りますまいな。もう連れていく面々は決めたではございませんか」

 劉備が何かを察し、口をはさんだ。


 ちっ、と舌打ちをして諸葛孔明は懐から名簿を取り出した。


 ☆

 

 馬良には別途、命令が下った。荊州に残り、主に少数民族の慰撫工作を受け持つのだ。もちろん向寵と共にである。


「向寵どの、我らは居残りでしたよ」

 彼女の私室の扉を開けたところで、また馬良の足が止まった。

 空気がじめじめと重い。


「兄者はもう、わしたちのことは必要ないのだ……」

「おう、その通りだ関兄。あんな荊州者ばかり連れていくなど非道すぎる」

「冷たい、あまりに我ら生え抜きに対して冷とうござります。向寵どのもそう思われるでしょう」

「はいはい、そうですね」


 むさ苦しい男たちが、向寵を取り囲むようにして号泣していた。

(しかも何だか、ひとり増えてるし)


「ああ、趙雲ちょううんか」

 劉備の陣営期待の若手武将なのだが。まったく、いい大人が年端も行かない少女に取りすがって何を泣いているのだろう。

(しかし。趙雲よ、お前もか……)

 馬良は心の中で呟いた。


 この時、劉備と共に先発する事になったのは、魏延ぎえんや、老将の黄忠こうちゅうといった荊州出身の武将達だった。個人的な武勇はもちろん、軍団としての練度でも子飼いの関羽、張飛の部隊のほうが遥かに上だ。しかし、そんな彼らは揃ってこの先陣から漏れていた。


 だが長江の下流域にあたる揚州を拠点とした一大勢力、呉の孫権そんけんがこの荊州を狙っている状況では、関羽や張飛といった主力軍を出せないのも事実だった。


「呉の孫権さんと、蜀の劉璋さんはどちらが強敵ですか」

 向寵は、よしよし、と三人の頭を撫でてやりながら訊いた。


「それは孫権だろう。特に周瑜しゅうゆ都督の水軍は脅威だからな」

 実際のところ、赤壁での勝利は殆どがこの周瑜の活躍のおかげと言っていい。それなのに襄陽を含む荊州の大半は、劉備が勝手に占拠してしまい、呉から激しい恨みを向けられているのだ。当然と云えばこれ以上当然なことはない。


「良かったですね。そんな強い敵に備えろ、なんて、劉備さまに信頼されている証拠じゃありませんか」

 ふむ、と関羽は身体を起こした。

「いや、わしはそんな事はとうの昔に分かっていたぞ。何を泣いておるのだ張飛」

「な、泣いてなどいるものか。それは趙雲の事だろう」

「これはしたり、わたしは向寵どのがケダモノに襲われているかと思い、駆け付けただけで……」

 わはは、と高笑いをしながら三人の武将は部屋を出て行った。


 それを見送り、向寵はくすっと笑った。

「可愛い人たちですね。でも漢人はなぜ、あんなに膝枕が好きなのですかね?」

 無邪気な顔で向寵に問われ、馬良は返答に詰まった。


 ☆


 その日、襄陽の城門前に大軍が整列した。軍団ごとの旌旗が風を受け、音をたててたなびいている。

「いざ、蜀へ!」

 劉備の声とともに、黒い塊は地を揺るがし西へ向けて動き始めた。


 黄色い砂塵が舞い、向寵の視界を奪う。進発する兵士たちの姿はおぼろな影のようにしか見えなくなった。

 なぜだろう、それが彼女には不吉なものに感じられた。


 

 

 

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