第2話 幕僚になったネコ

「こっちを向いてもいいですよ」

 向寵しょうちょうの声に、向朗しょうろう馬良ばりょうは目を開け彼女の方を振り返った。

「ほおう!」

 図らずも二人同時に、同じような声が出た。


 そこには、赤、黒、青の糸で織りあげた、鮮やかなにゃお族の伝統衣装をまとった向寵が恥ずかしそうに立っていた。

「わたしの邑から持ってきてくれたんだ……。ありがとう、おじさま」

 向朗は床の上に溶けそうになっている。にやけきった顔は、やはり、どこか変態っぽかった。


 衣服の基本的な構成や意匠は隣接するミャオ族と似通っている。色の組み合わせでその意味合いが違って来るともいうが、向寵もそこまではまだ教わっていなかった。

 本来であれば、これに銀製品の髪飾りなどを着けるのだが、略奪に遭った彼女の集落ではそんなものが残っている筈はなかった。


「おお向寵、これもかぶってみてくれ」

 そう言って向朗が差し出したのは、柔らかい素材で作った黒い帽子だった。小さな碧玉がいくつも飾られ、いかにも高価そうなものだ。

「これはわたしからの贈り物だ」

 それはにゃお族に伝わる帽子を忠実に模したものだった。ここ荊州の職人に造ってもらったらしい。向寵にとって、懐かしい形だった。


「ありがとう……」

 眼を潤ませ、向寵はその帽子を胸に抱きしめた。

「さあさあ、早く」

 頷いた向寵はそれを頭にのせる。


 その帽子は左右のてっぺんに三角形の突起が二つ飛び出している。本体と同じ柔らかな布でできたそれの内側は淡い赤色の布が使われていた。

 それを被った向寵の姿は、まるで。


「ネコ……」

 感極まったように馬良が言った。

 可愛い……、尊い……とか熱に浮かされたように単語ばかり並べている。とても当代一の学者の姿ではなかった。


「やはり、わたしの思った通りだあっ!」

 顔中、涙と鼻水でぐちゃぐちゃにした向朗が抱きついてこようとする。慌てて向寵は身をかわした。

「やめろ、おじさま。汚い、寄るな!」


 反抗期の娘のような事を言われ、向朗は床にくずおれた。今度は別の意味で涙を流している。


 ☆


「ところで、おじさま。この格好にしたのには何か意味があるの?」

 ようやく向朗が立ち直ったところで、訊いてみた。

「汚い言葉をつかう娘には教えてやらん」

 まだ拗ねていた。


「実はこれから、劉備りゅうびさまに会いに行くのです」

 代わりに馬良が答えてくれた。

「はあ。それは、……行ってらっしゃい」

 曖昧に手を振る向寵。


「いやいや。お前も行くのだぞ、向寵」

「ほお?」

 だから、こうやって正装したということか。やっと向寵は納得した。


 劉備、あざなは玄徳。かつての荊州太守 劉表のもとで客将となり、州境の守りを任せられていたが、劉表死後の混乱に巻き込まれ一度は荊州を去っていた。

 その後、荊州討伐のため南下してきた漢の丞相 曹操そうそうの大軍を、長江流域の赤壁の地において迎え撃ったこの男は、いま荊州の都 襄陽に拠点を置いていた。


「大きな声では言えぬが、どうやら劉備さまはしょくを狙っておいでのようだ」

 向寵も眉間に皺をよせ小声になる。

「おじさま。蜀とは……食べ物ですか」

「阿呆か。地名だよ。だれが盗み食いの相談をしているのだ」

「へえ。だったらそれはどこにあるんです」

 さすがにむっとした表情で向寵は訊いた。


 うむ、と向朗は首をひねった。しばらく考えた末。

「あっち、かな」

 およそ西を指差す。

「あの、わたしは方角を訊いているのではありませんが」

 どうやら向朗もよく知らないらしい。


 馬良が教えてくれたところによると、蜀とは中華の南西部に広がる益州の盆地にあり、始皇帝以前、まだしんが王国だった時代に開発が始まった比較的新しい土地だ。そのため人口は少なく、地味が豊かな割には国勢は振るわない。

 だがそれは、この益州を治める太守、劉璋りゅうしょうの無能のせいもある。まるで無為無策がこの男の政治方針であるかのようだった。


「だから劉備さんが頂く、と」

「まあ、有体ありていにいえばそういう事です」

 ふうん。向寵は腕組みをした。険しい顔になっている。


「知ってますか、世間ではそういうの略奪って言います」


 ☆


 二人して何とか向寵を宥めすかし、劉備の待つ襄陽の政庁へ向かった。

 案内された広間では、正面が一段高くなっており、豪華な椅子が据えられている。そこに腰かけていた男が三人を見て立ち上がった。


「これは向朗先生に馬良先生。早速のお越し感謝いたしますぞ。さ、さ、こちらにお掛けください」

 柔和な顔で手招きするこの男が劉備だった。


「ねえ、おじさま。あれは本当に劉備さまか?」

「そうだが、どうかしたか。……見ろ、あの神々しいお姿を」

 そう言って向朗は目を細めた。馬良に至っては手を合わせ拝んでいる。


「だって、あれは妖怪ばけものじゃないのかな」

「何を言い出すのだ、向寵。言っていい事と、悪い事があるぞ」

 だけど、と向寵は口をつぐんだ。


 史書には劉備の容姿はこう描かれている。

『耳は肩まで垂れ、振り向けば自分で見ることができる。その腕は、立ったまま伸ばせば膝まで届く』と。

 普通に読めば、妖怪である。


(いったい、この人たちにはどう見えているのだろう)

 向寵は首をかしげた。


 ☆


 そして、その劉備の後ろには二人の武将が控えていた。

 ひとりは真っ赤な顔の巨漢で、顎ひげが床に届きそうになっている。太い眉毛の下では血走った目を大きく見開き、来訪者を見据えている。

 やや小柄なもうひとりも特徴的な容貌をしている。虎ひげというのだろうか、あご回りの剛毛が見事に横に向かって伸びている。こちらは青白い顔で、苦虫を噛み潰したような表情をしていた。


 赤い顔の男が関羽、青い顔が張飛だと紹介された。

(こいつら、酒くさい)

 向寵は顔をしかめた。分かった、この連中、揃って二日酔いだ。


「この娘が、にゃお族の生き残りなのだな、向朗先生」

 ははっ、と向朗は頭を下げる。

「それでは馬良先生と、この娘とで蛮族どもを味方につけるための工作を担当してもらいましょう」

 蛮族だと、向寵は顔をあげた。


「おそれながら、彼らは蛮族ではございません」

 爆発しそうだった向寵より先に声をあげたのは馬良だった。

「彼らはみな、独自の文化を持っております。その点では我らと何ら変わるところはございません。ただその形が違うのみ」

 劉備は、ううと呻く。

「そうか。では全て先生にお任せしよう。向寵どのもよろしく頼む……。済まなかったな、心無いことを言ってしまった」

 そう言って劉備は詫びた。


「待てい、謝ることはないぞ兄者」

 足元がおぼつかない様子で張飛が進み出た。

「この娘、何やら気にくわん」

「止めんか、張飛」

 関羽が声を掛けるが、構わずに張飛は向寵に歩み寄った。そのまま、顔をくっつけんばかりに睨みあう。

「ぐるるる」

 喉の奥で張飛が低く唸った。

「にゃうーっ」

 向寵が少し高い声で威嚇する。ネコ科の動物どうしのケンカだ。

「ぐわう」「ふにゃうっ!」

 どちらも一歩も引かず唸り合いが続く。

 だがついに張飛が先に目を逸らした。がっくりと膝をつく。


「ふん。口ほどにもない」

 勝ち誇る向寵の足元で張飛は項垂れていた。



「では、わしは一軍を率いて蜀へ向かうからな。後は頼むぞ」

 一同揃って頭を下げる。


「ところでその間、誰の指図に従えばよろしいのでしょう」

 向朗が問う。そうそう、と劉備は手を打った。

「わしが不在の間は、あの男に政庁を取り仕切って貰おうと思う」


 振り返ると広間の入り口に、ひと際長身の男が立っていた。白い道服に白羽扇、まるで仙人のような出で立ちだった。

 おお、と向朗と馬良が声をあげた。納得させられる程の有名人らしい。

「誰ですか、あの危ない宗教に嵌ったみたいな人は」


「諸葛亮でございます。どうぞ、よろしく」

 男は、ほっほっほっと笑って一礼した。




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