ネコ将軍は五丈原へ行きたい ~ 三国志異聞「向寵伝」

杉浦ヒナタ

第1話 序章・吾輩はネコである

『吾輩は人猫である。あざなはまだない』

 ふにゃぅ、そこまで書いて向寵しょうちょうは筆を置き、頬のひげを引っ張った。左右に三本ずつ、細くて長い、固いひげが伸びている。

 小さな顔に大きな丸い瞳で、何度も首をひねるその姿は、まさにネコ科の動物を思わせた。


「なかなか斬新な出だしだけど……自伝としてはどうなのかなぁ」

 確かに漢民族と違って、我らはあざなをつける習慣はないのだが。


 彼女は大きなあくびをして天井を仰ぎ、目を閉じた。


 ☆


 彼女が生まれたむらは中原の南の外れ、荊州と益州の境にある。

 いや、正確にはあったというべきだろう。

 この地方には古代より少数民族が多く住んでいた。最も有力なのは『ミャオ族』だが、それに紛れるように、彼女たち『にゃお族』は静かに暮らしていたのだ。

 当時、荊州を支配していたのは劉表りゅうひょうという太守だった。老齢で穏やかなこの男は、少数民族に対しても干渉することは殆ど無かった。

 だが、その劉表が世を去った。


 北から『曹』の旗を掲げた軍団が現れ、彼女たちの邑は破壊された。山間に逃れたものの、打ち続く戦乱に巻き込まれ、にゃお族はその数を減らしていく。

 半人半猫を特徴とする彼女たちは、伝説上の武神、蚩尤しゆうの裔といわれるが、決して好戦的な民族ではなかった。何の抵抗もできないまま、向寵の家族もその時に殺されていた。


 曹操率いる魏軍を追い、亡びの途にあったにゃお族の邑を勢力圏に取り込んだのは、劉備りゅうびという、漢の皇族の末裔を自称する男だった。戦には弱いが、篤い人徳で知られる男だった。


 その代官として派遣されてきた向朗しょうろうが現在の向寵の保護者だった。向朗は孤児となった彼女を自分の姪として引き取った。向寵という名も彼から貰ったものだが、娘ではなく姪としたところに、この男なりのこだわりがあるようだった。


「実は、お前のような美少女に『おじさま』と呼んでもらうのが、私の生涯の夢だったのだよぉ」

 心から嬉しそうな顔をしている。養ってもらっている立場上、言いたくはないが、これは一種の変態なのかもしれない。


 だが向寵は、この向朗という、武将というより学者のような、痩せた若い男のことが結構気に入っていた。いつも本を読んでくれ、文字も教えてくれるのである。文章を書くのも彼が勧めてくれたことだった。


「ありがとう、おじさま♡」

 だから、こうやって可愛らしく呼んでやり、向朗が身悶えして悦ぶのを、少しだけ冷めた目で見るのが彼女の日課になっていた。


 ☆


「どうかな向寵、少しは書けたかい」

 おじさま、こと向朗が一人の男を連れて彼女の部屋に入ってきた。真っ白い眉のせいでかなりの年配者かと思ったが、よく見れば向朗と同年代のようだ。

馬良ばりょうと申します」

 柔らかな物腰で彼は会釈した。学識に優れ「白眉はくび」として世に知られている男で、人材の乏しい劉備陣営には珍しい有名人だった。後の世に、最も秀でたものを白眉というが、それは彼に由来する。

 


「おーい向寵、この男は大丈夫だから降りておいで」

 自分の背丈より高い箪笥の上に飛び乗った向寵は、体勢を低くしてシャー、と唸り声をあげている。

「向朗どの、やはり私は失礼するよ。どうも嫌われているようだ」

 ちょっと困った表情で馬良は部屋を出ようとする。

「ああ、すまんな。だが、わたしと初めて会った時も一週間くらいはあんな調子だったから、気を悪くしないでくれ」


 にゃお族とは本来、他部族とあまり交流を持たない民族である。そんな中で育ち、さらには両親を目の前で殺されたのだから、向寵が他人に対して警戒を強く持つのは当然の事ともいえた。


「では、この菓子は後で食べてもらってください」

 卓の上に土産を置き、背を向けた馬良の服を誰かが引いた。振り向くと、いつの間にか床にちょこんと座った向寵が彼の上着の裾を掴んでいた。何の物音も気配もしなかった。


「お菓子があるのか?」

 少女は真剣な表情で馬良を見上げる。

「え、ええ」

「そうか。だったら、お前はわたしの味方に違いないな」

 そう言うと向寵はにっこりと笑い、馬良に抱きついた。

 朴念仁で通っている馬良だったが、不覚にも胸がときめくのを感じた。


「うらやましい……」

 彼の後ろで向朗がつぶやく。


 ☆


 赤壁せきへきの敗戦で曹操の中原統一は頓挫した。

 だが彼に焦りの色は見えなかった。失った兵の多くは降伏してきた荊州兵だったこともある。魏軍の痛手は最小限に留められていた。

 そして最も大きな理由。

「一時的に連携しているとはいえ、劉備と孫権の関係がこのまま続く筈はない。いずれ荊州の領有をめぐって争うのは確実だろう」

 勝利を得たと思い込んでいるものは、其れが故に内紛を起こすものだ。


 奴らが潰し合うのをここから見物させてもらおう。曹操は完成したばかりの銅雀台を前に大笑した。

 

 こうして、三国鼎立の序章は始まった。

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