第10話 収拾

書記官執務室に戻るや否や、書記官は中尉を殴りつけた。

「馬鹿が」

鈍い衝撃と言葉の両方が上野を襲う。

「…ご乱心なさいましたか?」

右頬を殴られた上野は顔を歪めた。

「議会を簒奪さんだつしようなどと意見するほうが狂っている」

「可能性を申し述べただけで、ぐっ!」

「口を慎め千穂」

文官といえ佐渡も軍人である。二発目を食らった上野は横に数歩よろめいた。

「仮に貴様の考えが最適解であったとしてもだ。申し上げる時期というものがある。何でもかんでも意見すれば良いというものではない」

 書記官は総司令の側近が任じられる。総司令の意向を最も理解する人間であり、総司令と同じ視点を持つ者でなければ務まらない。加えて、総司令よりも広い視野、遠い見通しを持ちつつも常に傍らに控え続け、決して主君を超えてはならない。

 佐渡弥八郎はそう考えている。上野の行為は彼の信条を逸脱していた。

 相手が宇都宮大尉や兵部大佐なら制裁を加えなかっただろう。

 加える相手でもなかった。

 「………閣下も少佐もお分かりのはずです」

 上野は口の端を指で拭う。

 「議会は立ち直る気がない。14年の猶予を与えられても当時の醜態の責任をなすりつけ合うばかりです。今度は軍を引きずり込もうとしている。少佐を狙ったのも自身の悪事を隠蔽する為と来た。およそ国政を担う者のする事ではない」

 口の端から再び細く血が流れた。

「いずれは軍が名実ともに国政を主導しなければならなくなりましょう」

「まだ早い」

 モルヒネ密売事件は軍にも非がある。書記官狙撃はあくまで密売事件の関連だ。議会が彼らの役目を放棄する事態に至るまで、円滑な国政移譲は困難だ。

「その甘さが陛下を危険に晒したのでありましょうが!」

佐渡の目が鋭く細められる。

「確かに貴様の判断は正しかった。だが調子に乗るな」

上野の顔が皮肉に歪んだ。

「嫉妬でありますか?」

「忠告だ。私を超えようと思うなら感情に惑わされぬことだ」

 であれば貴様の頭脳は私に匹敵するだろうがな。

 優しくない佐渡はそこまで伝えようと思わなかった。



 上野を退室させた佐渡は煩わしさにため息をついた。

 中尉は私と関わるといつもあれだ。父親より有能であろうとしてムキになる。

───結局は私に非があるのだがな。

 それでもあれほどまで毛嫌いされる謂れはない。と、佐渡は思っている。

 真冬の水は冷たい。冷水で口をゆすげばあの男の頭も冷えるだろう。



 帝室武官経由でもたらされた帝室侍医の見解は『お風邪を召した為による体調不良』。

 「侍医どのは誠にお風邪が原因との考えか?」

 総司令執務室で総司令は武官に問う。

「はい」

 仮に落花生による『allergy』とやらでも、それがはっきりと分からない以上、認めるわけにもいかなかったのだろう。ましてや本邦でごくごく最近の知見だ。

「帝室の公表時期は?」

「午後にも発表の予定であります」

 壁の振り子時計は11時を指している。

「分かった。侍医どのの見立てがお風邪であるなら、こちらもそれに従おう。本日中に軍も調査結果を発表する」

「はっ。帝室にそうお伝えいたします」

 総司令の傍らでドアが閉まるのを見届けた佐渡は右脚に重心を移して左脚を浮かせた。脚全体が重い。

 松葉杖無しの直立は負担が大きかった。入院中、運動していたから問題ないとの考えは甘かったか。

 「どうした?」

「―――いえ」

「無理するな」

とっくに無理をしていた。

「公表はいつになさいますか?」

「向こうの後すぐにする。準備をさせておけ」

「かしこまりました」

毒を否定する証拠は既に揃っている。各部署が徹夜で調査した結果だ。

 まずは第四部に連絡を入れよう。


 

 午後1時。昨晩から今朝にかけての皇帝の体調不良と回復に関する声明が帝室報道官より発表された。

 帝室発表の直後、帝国東方面軍総司令部が会見を開いた。『軍が陛下に毒を盛った』との一部の噂を全面的に否定し、皇帝のお身体を気遣う内容であった。

 総司令部は会見で昨晩の晩餐会の調査結果を公表した。昨晩の料理、材料、皿、グラス一つからも毒が検出されなかった事を説明した。

 新聞社、ラジオ局の記者達が宮城と総司令部の間を慌ただしく駆けずり回る1日が過ぎた。

 「まずはこんな所だろう」

 総司令執務室に集う面々を前に松河原総司令は言った。

 佐渡書記官と上野書記官代理、福部第10部部長が控えている。

「餌は与えた。食いつけば釣り上げる。食わなければ世評は落ちつく。福部、手筈は済んだな」

 黒髪の青年、福部大佐が口を開いた。

「既に見張りに入っております」

「上々だ」

総司令はこの日初めて笑みを見せた。

「さ、狩りといこうか」


 


 執務室に身体を運び入れた瞬間、佐渡の右脚から力が抜けた。

 反射的に左脚に重心を移す。体勢を立て直した、と身体が感知したのも束の間。治癒しきっていない大腿部は鈍い痛みと共に姿勢の保持を拒絶した。

 結果、佐渡は膝から崩れ落ちる。

両手を突いて、床への突撃だけは回避したが───。

「………っ」

佐渡は顔を歪めた。脚の傷がじわじわと痛い。


自力で立ち上がれないな、と彼は後悔した。支えは執務室の机際に立てかけてある。どう頑張っても届かない距離だ。這って行くか───。

 

 カッ。

 靴が目の前で止まる。

 両手と膝をついて動けない佐渡を見下ろした上野は溜め息を吐いた。

 佐渡を置いて室内奥の執務机に歩み寄った彼は松葉杖を取る。訝しく見上げる上官の前に戻り、

「肩をお使いください」

 跪いた上野の肩に、佐渡は半信半疑で手を伸ばす。

 「よろしいのですか、それで」

 肩を貸すと見せかけて転ばせる気があるかもしれないが…仕方ない。

 掴んだ肩は見た目以上にしっかりしていた。

 上野は佐渡に合わせて立ち上がる。

身を起こしきった彼に松葉杖が手渡された。

 「………だけだと?」

文字通りの『肩すかし』を食らうつもりが、肩すかしを食らった気分だ。

 「自分とて、日に何度も無様な御姿を拝見したいとは思いません」

伏し目がちに上野は答えた。

「病院までお送りいたします」

今度はしっかり目を向けられる。

「『今暫く休め』とも閣下は仰せだったな」

 本当ならさっさと復帰したいが、現実は上手くいかないようだ。今日一日動き回ってこの有り様である。己の無理をさすがに認めざるをえない。

「───今日は少しこたえたようだ」


 

 翌日から議会は紛糾した。軍部の声明を偽りとする議員もあり。声明を支持する議員もいた。

 一方、警察は議会議員清名栄蔵せいなえいぞうを麻薬密売容疑で逮捕。その秘書を佐渡弥八郎参謀少佐狙撃犯への殺人教唆容疑で逮捕した。

 清名議員の逮捕は議員の汚職事件として注目され、新聞の一面を賑わせた。

 陛下ご不例と議員の逮捕という混乱した世相は年末年始で落ち着くかに見えた。

 退院後、官舎に戻って療養を続けていた佐渡は上野の訪問を受けた。

 ちなみに上野は別の官舎で一人で暮らしている、らしい。

「また問題事か?」

「閣下のお呼びであります」

 玄関先で上野は素っ気なく答えた。

 どちらにしろ問題事か。

「支度する」

佐渡は脚を引きずり奥へ戻った。

 


 「議会議員の一人から告発がございました」

 総司令部へ向かう車中で上野は口を開く。

「先の懸案か」

懸案とは、一部議員の軍への反発の事だ。清名議員の密造モルヒネの収益が、この活動資金に充てられている可能性があった。

「総司令部への武力行為を計画していたと。第10部経由の告発であります」

「なんだと?」

 口喧嘩ではなく拳をもっての喧嘩か。それは軍に一日以上の長がある。

「内通があったと聞き及んでおります。詳細は到着後にお知らせいたします」


 

 代理を伴って執務室に現れた書記官に、総司令は告げる。

「議員の一人から密告があった。『議員の息のかかった市民に軍への暴動を起こさせる計画がある』とな」

 軍に強い不満を持つ市民もいる、と世間に知らしめる為か。年末の皇帝陛下ご不例騒動は世間の記憶に新しい。

 「相手から網にかかりにきた、という事ですな」

「願ってもないことだ」

総司令はニヤリと笑って机の上で指を組む。

「愚問ではありましょうが、寄せられた情報は確かで?」

罠だとしたら軍にとって致命的な失態となる。

「ハンゾウの調べで裏は取ってある」

「左様でございましたか」

ならば、取るべき道はもう決まったようなものだ。

 しかし、こんな事で閣下に呼ばれる理由もないのだが。お考えを披露する為だけに怪我人を引っ張り出すだろうか。

 呼ばねばならないとしたら何だ?

 「───既に警察を動かしなさいましたな」

佐渡の傍らに控えた上野がちら、と目を向ける。

「気づかれたか」

悪戯に気づいてもらった悪童のごとく、総司令は楽しげに笑う。

「閣下は騒ぎを企てた者共を引見なされるおつもりでございましょう」

「大当たりだ。身体を休ませていても頭脳は休んでいないな」

総司令はぱちぱちと手を叩いた。そして不意に笑みを消す。

「捕らえた獲物を見なければ、狩りの成功とは言えんからな。───中尉、車を出せ」

「は、」

総司令は席を立った。

「お前も来い、弥八郎」

佐渡の横に立った総司令はまた笑みを浮かべた。

鬼が笑うとこうなるのだろうか、と思うくらいに凄まじい笑みだった。

 今回の騒動で大層お怒りなのだ。

 ここは穏やかに返答するのみ。

「承知いたしました」


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