第9話 毒ならぬ毒

 身支度の最中と総司令部に向かう車中での口頭説明。到着後は総司令部書記官執務室で文書を網羅。

 佐渡は負傷直前から現在まで、全ての情報を頭に入れた。

 およそ1ヶ月ぶりに戻った席で彼は顔を覆った。

 「───しまった…」

 完全に後手に回った。大物を釣るつもりが釣り竿ごと水中にひきずり込まれたようなものだ。

 「───お前の進言を容れるべきだった」

 上野中尉があんパンを載せた皿を佐渡の前に置く。

「やはり落馬時に頭を打っておられましたか」

「どういう意味だ」

「少佐に似合わず甘い判断だったと申し上げました」

「否定できんな…」

 情報は全て頭に入れたが、何をされたのかすら分からない。

 今時点で、陛下の召し上がった料理はもちろん、出席者に提供された皿一枚にも、毒の痕跡は見つかっていなかった。

 毒だと判明していれば釈明もできる。犯人への手がかりにもなるだろう。これでは解決の糸口すら掴めない。どう対応すべきかの最善の一手すら浮かんで来なかった。

 「───お前が私に報告する訳だ」

 佐渡は文字通り天を仰いだ。

 むっすりした顔の上野が覗き込む。

「軽く食事を摂られる事をお勧めいたします」

「ん?」

「少佐は朝食を摂られておりません。何も食されないでは、働くものも働かぬかと存じます」

 佐渡はようやく、机にあんパンが用意されている事に気づいた。

 手に取るとほんのり温かい。けしの実を散らしたキツネ色のパンを割ると、こしあんがぎっしり詰まっていた。

 しかも旨い。

 給仕室にあった間に合わせではなさそうだ。

 「手際が良い」

「ありがとうございます」

 茶を淹れていた上野は急須をそっと置く。

主水もんとか」

「は」

 帝都に本店を構える主水屋は皇帝御用達の菓子屋である。先帝の頃に餡をパン生地で包んで焼いた「あんパン」なる物を売り出したところ、大評判となった。先帝も好んで食されたという。

 「宇都宮少将閣下から戴きました」

 佐渡の疑問に答えるように上野が言った。

 ───相変わらず世話好きのお方だ。

 少将の世話焼きもたまに助けになる。





 松葉杖をついて総司令執務室に現れた書記官を見て、松河原総司令は目を丸くした。

 「もういいのか、弥八郎?!」

「休んでいる場合ではないようでございますので、出て参りました」

「いや、でも、歩けていないぞ!」

 机を離れて書記官に歩み寄る。

「どのみち一年ほどは杖が必要と言われてございます。表の傷は大方塞がりました」

まだ言いたい事がお有りだったようだったが、総司令閣下は諸々一切を飲み込まれたらしい。

「………分かった。急な復帰になってしまって済まないな佐渡」

 総司令の指の爪が異様に短く、ぎざぎざしている。噛んでおられたのだろう。大層苛立っておられる。

「中尉、椅子を用意しろ」

佐渡は慌てた。

「気遣いは無用であります。いつもとお変わりなく」

「いいから使え。俺が許す」

「…は」

 隣の会議室から戻ってきた上野が、書記官のすぐ後ろに椅子を据える。

 執務室にいるのは3人のみだ。

 「さてどうするか」

 まずは原因究明。軍が関わっていないという明確な証拠がいる。

「毒を盛った真犯人を捜すか、毒を入れていないと証明できる証拠を見つけなければならん」 

明らかに否定できる証拠が無い以上、噂を噂と看破できない。

「次にこちらを陥れた者共をはっきりさせねばならない」

 モルヒネ密売事件と佐渡狙撃事件の陰に議員の存在があるのは分かっている。両事件が皇帝の体調不良と関係があるのか否か、結果によって対応が変わってくる。

 「ハンゾウと憲兵部に調査を進めさせているが、昨晩の今朝だ。すぐには上がってこない。こちらも調べるぞ」

「は」

書記官権限で調査せよ、との意味だ。

「といってもその脚じゃ動き辛いだろう。上野も佐渡について動け」

「かしこまりました」

存外あっさりと上野は了承した。

「早速でありますが、気にかかる事がございます」

「ん?」

「晩餐会終了直後、体調不良を訴えた参加者がいたとの記録がございました」

「誰か」

「東海司令部司令、和栄七之助かずえしちのすけ少将であります」

「七之助が?知らんぞそれは」

総司令は眉をひそめる。上野は続ける。

「少将は『いつものこと』と仰せで『閣下かご存じになれば余計なご心配をおかけする』とご不調を伏せるよう指示されたとのことであります」

 ここのところ、和栄少将は病気がちだった。

 「少将が訴えられた症状に陛下のご病状と同じ症状がございました。和栄少将にお話しを伺いたいと存じますが、宜しいでしょうか」

「仮に症状が同じだとすると何が分かる」

佐渡が口を挟む。

「毒では無い事が証明できる可能性がございます」

 佐渡の知る限り、出席者ごとに料理と皿の区別はなかった。未成年の陛下のお飲み物がジュースに変更されていただけだ。

しかしそれだけで毒の可能性を否定できるのか。検出できない毒が混ぜられていた場合だってある。

 総司令は顎に手をやった。

「少し探ってみろ」



 和栄少将は帝都中央駅近くのホテルに宿泊している。

 「もう大丈夫なのですか、佐渡少佐」

いささか気弱そうな顔の和栄少将は松葉杖を突いて現れた佐渡を心配する。

「少将こそお加減がよろしくないと耳に挟みました。このような時にお邪魔して申し訳なく存じます」

「いえ、よくある事ですから」

 ホテルのベッドに身を起こしている和栄は微笑む。常に気弱な顔がさらに気弱に見えた。

「失礼ながら、よくある事とは?」

「特定の食物を食べると気分が悪くなるのです。避けるよう心がけているのですが、今回は油断してしまった」

「特定の食物?」

和栄は表情を曇らせた。ややあって、自分が言うと晩餐会を準備した総司令および総司令部に不快な思いをさせる、と呟いた。

 「少将閣下のおっしゃる食物に総司令閣下が興味を持たれております。お話しいただけないでしょうか」

「閣下が…?分かりました」




 落花生。

 和栄少将はそう言った。若い時から食べると気分が悪くなるという。酷い時は嘔吐する、とも。

 「なぜ毒でないと考える」

 ホテルから次の場所へ向かう車中で、後部座席の佐渡は上野に問うた。

「検出できない毒である場合もあろう」

「欧州滞在中に知り合いから聞いた話です。『毒ならぬ物が毒に変わる場合がある』と」

前を見たまま上野は答える。

 通勤時間帯の帝都は人と車があふれて奔流を作っていた。

「信憑はあるのだろうな」

バックミラーに写る上野の目が冷ややかに細められる。

「その知り合いに会いに向かっているのですが」

「…失礼」

 本当なら書記官の業務を彼に任せて自分が調べたほうがいい。脚が不自由なばかりに中尉を伴わせている。

佐渡は溜め息をついた。

 一人であれば互いに気楽だろうに。


 帝国医学校。

 帝国一の医科学校は国内最高峰の研究機関でもある。各地の医学校の創立者は皆、この医学校で研究、または卒業の経験があると言われるほどの権威を誇っていた。

 片山研究室。

 上野中尉と若い教授はドイツ語で挨拶し、握手を交わしていた。

「失礼、つい最近帰国したばかりでして。向こうの慣習が抜けていないようです」

「にしては発音に訛りがない。中尉は順応が早いな」

 片山哲二朗かたやまてつじろう教授は丸眼鏡の下の丸い目を更に丸くする。

「大した事ではありませんよ。今日お邪魔したのは、教授のお知恵を拝借したく参りました」

「なるほど?」

 思い出したように上野は片山を紹介する。

「少佐、こちらは帝国医学校教授、片山哲二朗先生であります。昨年までドイツの研究所に留学しておられました。最新の医学に精通しておられます」

 名を聞いたことがある、と思いつつ彼も名乗る。

 簡単な挨拶を済ませると上野が片山に訊いた。

「落花生でallergyは起こるのでしょうか?」

 こいつは今なんと言った?さっぱり聞き取れなかった。

 頭上に疑問符を浮かべている上官を放置して上野と片山は話を続ける。

「体内の何が反応しているのか分かっていないが、落花生を摂取して体調を崩す例は幾つか診た」

「症状をお教えいただけますか?」

「嘔吐、腹痛、…血圧低下が多かったかな」

「めまいなども?」

「めまいで済めばいいがね」

「というと」

片山は学者然に事実を述べた。

「急な血圧低下のせいで、治療の甲斐がない場合もある」

上野は息を呑み、佐渡は目を鋭く光らせた。

「allergyは少量で起こる人いれば、多量に摂取しても軽症で済む場合もある。人それぞれに異なるし、世界中の学者が注目し始めたばかりだ。見つけた僕らにもまだ分からないことが多い」

 淡々と、だが興味を抑え切れない様子で片山は語った。

 「確か、教授は論文を発表なさっていたはず。この国で閲覧できる場所はございますか」

「学会で発表しただけだったかな。論文は手元にあるし」

「閲覧に訪れた方は」

「皆、医学の人間だ。興味を持つ変人は君くらいさ」

 片山は冗談混じりに答えた。

「私からもよろしいでしょうか。学会での聴講者にも一般人は見られなかったのでしょうか?」

 佐渡の発言に、片山は心持ち意外そうな顔をした。

「医学校の先生方と、篤志家の先生、あとは地元の先生…同業の人間だけでしたかな。他がいれば覚えているものですし」

「おっしゃる通りです」

 もう一度帝室武官からの資料を読み直す必要があるな、と彼は思った。




 医学校から総司令部に戻った佐渡は帝室武官から提供された書類を繰った。

 アレ…なんとかは国民に広く知れていない。晩餐会の食事に等しく使われていたとすれば、事故と考えられる。材料として使用するに不自然であれば、犯人は陛下を危険に曝すつもりだったと言える。

 ───あった。

 晩餐会で提供される料理のメニュー表だ。変更は無かったというからこれは参照できる。

寸刻、メニュー表を見つめていた佐渡は傍らの上野に問う。

「中尉、キャラメルナッツタルトに落花生は入っていたか?」

「はい」

「決まったな」

メニュー表を机上に置いた彼は椅子から立ち上がった。



 「陛下のご不調の原因はデザートに供されたキャラメルナッツタルトに含まれていた落花生でありましょう」

総司令執務室で佐渡は報告する。

「ああ?何で落花生なんだ?」

「自分が説明いたします」

上野が発言する。

 「欧州では特定の食品を摂取した際、嘔吐などの体調変化を引き起こす例が知られております。落花生もその一つであります。恐らく陛下もそうした御方の一人であるのでございましょう」

「………」

総司令は爪を噛む。

上野の後を佐渡が引き継いだ。

「帝室武官より提供されたリストには、陛下のお好みの品、厭われる品は記されておりませんでした。メニュー表にはタルトが記載されておりました。昨日の料理は当初の通り提供されたとのこと。帝室は陛下のご体質を把握していなかったと考えられます。以上であります」

 報告を終えた佐渡は椅子に腰掛けた。左脚が重く痛む。さすがに立っているのが厳しくなってきた。

「じゃあ、陛下を狙ってという話では無さそうだな」

松河原総司令は難しい顔をした。

「閣下、その陛下のご容体は…」

「嘔吐も収まり、お脈も正常に戻られた。皇太后様は大変安堵なされているそうだ」

「幸いでございました」

「こっちは安心できないがな」

総司令は腕を組んだ。

「噂の広がりが早過ぎる。既に新聞社の輩が押し掛けてきているしな。しかも内容がいやに正確だ」

 噂が含む事実の割合は少ない。伝わる内に尾鰭が付き元の情報から形が離れていく。

「陛下のご不例が昨夜。新聞社が嗅ぎ付けるのが今朝………。国民の関心事といえ早過ぎる」

 誰かが情報を流したか。

 「推戴派、の可能性は低いでしょうな」

「俺もだ」

皇帝を至上と仰ぐ彼らが自らの主張を通す為に皇帝を危険に晒すとは考えにくい。

 「帝室と協議の上、事実を公表し、尚も軍の仕業と騒ぐ者の裏を捜査してはいかがでしょう」

「うん?」

 総司令は怪訝な顔を上野に向ける。

「身にやましさを抱える者程、保身の為に他者の失点を叩きたがるものです。帝室の鶴の一声に従わぬ者に関係者がいると見てもよろしいのではないでしょうか」

「軍による議会弾圧と騒ぐ輩もいるだろう」

「議員連中は内部対立にしか興味の無い輩であります。軍の対応に疑念を抱く国民はそう多くないでしょう。いっそこの機会に軍の介入を強めて、」「佐渡中尉、」

 言葉を遮られた上野は不満な顔を少佐に向け、射すくめられて沈黙した。

 書記官の眼は上司のそれでもなく、子を叱る親のそれでもなかった。

 総司令の前でなければ物理的制裁を加えられかねないものだった。

 鷹の目。

「───口を慎め」

「は、…」

上野は姿勢を正した。

 腕を組み、左手で肩の飾緒をいじっていた総司令はゆっくり口を開く。

 「中尉の言う事はもっともだ。帝室と軍、双方が公表するべきだろう。『たまたま陛下が体調を崩された』と。国民に膾炙していない事実を発表すれば余計な混乱を生む。皇太后様が陛下のご体質をお認めになるかも分からない」

佐渡もその点では同意している。最後の一言が余計だった。

「尚も騒ぐ者どもはいかがなさいますか」

「帝室不敬罪も視野に入れて調査させる。議会の企ても収まるだろう」


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