その5
芸能界を退いた後、彼女は本名の『前川花枝』に戻り、30代半ばを過ぎてから、定時制の看護専門学校に入学した。
昼間はスーパーでレジ打ちのパートをして働きながら、夜学校に通う。
お世辞にも楽な生活ではなかったが、やりがいはあった。
そうして二年間を過ごした後、正看護師の資格を取得、幾つかの病院勤務を経て、それでもなお勉強を怠らず、助産師と共に保健師の資格も取り、今から7年前にこの町で助産院を開業した。
『生意気な言い方になるかもしれませんが、芸能界を離れて、私は本当に人間らしい生活を知りました。人の命の営みを知り、そして命を産む手助けをする。当たり前のことですけど、それがどんなに尊いことか、やっと分かるようになったんです』
彼女の目は、本当に澄んだいい輝きをしていた。
芸能人でいた時代の彼女とはまた違ったものがそこにあった。
ドアをノックする音が聞こえ、先ほどの若い女性が顔を出した。
『叔母様・・・・いえ、先生、お食事の用意が出来ています。それと午後1時から隣町の山田さんの奥さんの往診に・・・・』
彼女はるり子といい、花枝の姪にあたる女性で、やはり看護師の資格を取った後、助産師を志望して、今ここで働いているのだという。
『そう、分かったわ、今行きます。』
『悪いけれどそういう事情なので、ご依頼は引き受けかねますとお伝えください。申し訳ありませんけれど・・・・ああ、そうそう、ついでで結構ですから、T子ちゃんにだけは”いつもお手紙を有難う”と伝えておいてください』
『分かりました』
俺はそう答えるより仕方がなかった。椅子から立ち上がり、玄関を出ると、彼女は俺の姿が見えなくなるまで深く頭を下げてくれた。
東京に戻った俺は、件のプロデューサー氏に事の次第を報告する。
彼は、
『約束が違うじゃないか』
『何とか連れてきてくれないと番組が出来ない』
などと、何度もだらだらと愚痴っていたが、そんなのは俺の知ったことじゃない。
『俺はあんたから、彼女の出演依頼があったことを伝えてくれと言われただけで、彼女をテレビカメラの前に引っ張り出せとは依頼されてない。どうしてもそうしたいんなら、自分で交渉するんだね。ああ、仕事はしたんだ。代金の方はお忘れなく。振り込みでいいよ。』
俺はそれだけ言って、まだ受話器の向こうでわめいているPをほったらかして、受話器を置き、シナモンスティックを咥えた。
普段クールに生きてる俺だって、赤い血くらいは流れているさ。
あの女王様は、今本当に幸せなんだ。
それを乱す権利なんか、誰にもありはしない。
(年を越すには、もう少し稼ぎがいるな)
しかし、俺ってなんて商売が下手なんだろう。
終わり
*)この物語はフィクションです。登場人物その他全ては、作者の想像の産物であります。
幸福な女王様 冷門 風之助 @yamato2673nippon
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