涙落つることはなく

 ――しかし、ときに、世界は俺たちに優しくはなかった。


「この、薄汚い異形が!」


 投げられた卵がべちゃりと彼の外套に当たって、潰れた。彼に抱きしめられるようにして外套の内側に隠された俺は、その声を外套越しに聞いていた。

 布を隔てているからか、それとも涙ぐんでいるからか、その声はくぐもっていた。


「俺のお袋は、あんたらに何もかもつぎ込んで……! おかげでうちの家はめちゃくちゃになった!」


 どう責任を取ってくれる。


 男は叫ぶ。


 彼はただ静かに、男の言葉を聞いている。いつもより少し早い彼の脈拍が、寄りかかった彼の胸板のその向こうから聞こえてくる。


「あんたのせいだ、あんたらのせいだ、なにが天使だ……! 気持ちの悪い化け物やないか、ただの人でなしだろ! 金の亡者が……!」


 俺は自分の鼓動が嫌な風に聞こえてくるのをただ聞いていた。彼が深く息を吐き出すのを聞いていた。


 薄汚い異形。

 化け物。

 人でなし。

 金の亡者。

 そう言われることは別段珍しいわけではない。


 彼は自分の天使のような容姿と、歌声、そしてこちらは観客たちには知られていないが、物語を作る才能を売りにしている。

 見世物小屋では主に、曲に合わせた弾き語りをしたり、自分で作った脚本に合わせて演じたり、舞台裏で歌手をしたり、その活躍は多彩で、この見世物小屋は純粋な事実として彼がいないと立ち行かない。

 そして、見世物小屋の看板だからこそ、見世物小屋に対する悪意もまた、彼が一身に受け止める羽目になる。彼の容姿が普通とは一線を画していることも、その罵倒を受けるに至る一因だ。


 彼はなにも悪いことはしていない。容姿を売って稼ぐとはいっても、個人を指して誘惑することはない。

 彼の人柄が悪辣というわけでもない。そうであるなら、行く先々の街ですんなり馴染むことなどできやしない。


 ただ、彼が人々を魅了するのも――稀に、惹きつけられた人々の好意が行き過ぎてしまうのも、また純然たる事実であった。


「悪いが、」


 見計っていたのだろうか。男の罵倒が切れたとき、彼は淡々とした語調で言った。


「謝ることはできない」


 とん。


 俺の背中を彼の手がさする。怒りを押し殺そうと彼の外套を固く固く握りしめていた俺の背中を。気持ちを落ち着けようと必死に息を殺していた俺の心を、鎮めるように。

 とん。とん。

 ゆっくりと。


「ふざけっ、」

「ああ、人でなしかもしれないな」


 あくまでも静かに、彼は言う。


「俺が異形であるのも、化け物であるのも、天使ではないことも事実だ。……だが俺は天使だ。自分を天使と言い張る」


 息継ぎの音。


「化け物でもないただの人間を見て、笑って金を払うやつはいない」


 断固とした声だった。じり、と後退りするような音が聞こえる。

 俺は外套の裾を少しだけ捲って、男を見た。男は臆したような表情を浮かべていた。


「お前の家庭がどうにかなってしまったのは、俺が原因かもしれないが、だからと言って俺がお前の家族のことに口を出せるわけもない。……それとも、俺に怒りをぶつけて、何かが変わるのか?」


 彼の言葉に激情は籠もっていなかった。事実を述べただけのように聞こえた。

 俺は外套の裾を少しだけ捲って、男を見た。先程の勢いはどうしたのか、男は呆然と突っ立ったままだった。


「……帰ろう」


 やがて彼がぽつりと呟いて、身を翻す。俺もそのあとに続く。

 振り返ることはなかった。俺は、興味もなかったから。


 彼は、果たして。


 その夜のことである。


「おもしろき、こともなき世を、おもしろく……すみなしものは、心なりけり」


 不意にそんな言葉を口にした彼に、俺は怪訝に思って眉を上げる。彼は柔らかな顔で笑った。


「なに、それ」

「俺の座右の銘。俺の故郷では有名な歌だったんだよ」

「歌?」

「短歌と言ってな、特定のリズムでつくる決まりの……詩といった方がわかりやすいか」

「ふうん……」


 彼の手を借りて手遊びをしながら、俺は気のない声で相槌を打った。別に興味がないわけではなかったが。


「意味は?」

「面白くないこの世を、面白く思えるかどうかは、心の在り方次第」


 だからいつも言っているだろう、と彼は遠くを見ながらつぶやいた。


「お前が心を痛める必要はないよ。主人公には試練を与えるものだろ?」

「……それ、」

「そう思った方が楽しいってことだ」


 このとき、俺は初めて、彼がどういう意味でその言葉をいつも言っているのか、理解したのだった。

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