二度目の選択、そして再び間違える

文月樹蕾

序章①

 不意に眠気が襲う。目の前に広がる景色にもやがかかり、たちまち全身から力が抜ける。


「やっと来たな…」


 正直に言うと、この感覚を味わうのは嬉しさ半分、不安半分といったところだ。

 もうこれで四度目だったろうか。

 前の三度——否、この現象を理解してからの二度は、再び同じ行動を繰り返すことへの憂鬱さを抱えてこそすれ、気楽に身を任せていた。けれど今回ばかりは、そういうわけにもいかない。今度は己の手で局面を打開せねばならない。


「状況は壊滅的。一番の心配事はどこの地点でリスタートかってことだけど、おそらく何をやっても間に合わない、なんてことはないはずだ。犯人なんて皆目見当もつかないからな…。あの現場で一か八かやるしかない。——一緒に助かって、一緒に行こうぜ、動物園」


 ミスなどあってはならない。もう二度とやり直しの利かない、一世一代の大勝負に…


「やってやろうじゃねえか!」


 妻吹彗つまぶきけいは柄にもなく叫んだ。消えゆく意識の中で、周囲が向ける怪訝けげんな視線など気にも留めず、自身の意志を〝過去の自分〟に託して。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 扇洋せんよう高校の定期考査は半期に一度ずつと、生徒にとっては優しいのだか厳しいのだかわからない方式が採られている。彗は最終日の最終試験である現国の問題を解き終え、見直しをすることもなく物思いに耽っていた。

 雨上がりの小鳥のさえずりをぼんやりした頭で認識しつつ、小説の問題に鳥が深く関わっていたことを思い出し、意に反して意識が覚醒する。


「(少しくらい休ませてくれよ…)」


 そんな愚痴の一つも零したくなるくらいには、頭を使う問題だった。

 この高校の現国の定期試験は、一年のこの時期から実力試験よろしく初見の問題を解かされることとなる。

 それはつまり、見直しなどほとんど自己満足みたいのものであって、睡眠と天秤にかければおのずと答えも出てこよう。

 …とは彗の言い分である。彼は入学直後の実力試験で学年五位に入った秀才。諸々の事情により地元の高校へ行く気になれず、少しレベルを落としたのも起因しているだろう。しかし全国でみても上から数えていいほどであることはまず間違いない。


 雲の間から陽が差す。雨だったせいか、冷房をあまり効かせていなかったことも手伝い、窓際に座る彗の額には数滴汗が浮かんでいた。

 今も凡人諸君が傍線部付近の重要語に丸や四角や三角を描き、問題用紙を睨んでいる。そんな中、彗は残りあとどれだけ無駄な時間を強いられるのか、と黒板上の時計を見やり、安堵する。



 視界の端——黒板の片隅には、『七月二十一日、日直・伊丹椿姫いたみつばき』の記載があった。



 彗が時計を確認してから三分と経たないうちに、試験監督から終了の合図があった。

 いつもはこの後清掃をすることになっているが、試験期間はその役務が免除となる。皆が試験の出来不出来を大声で騒ぎ立てるのを横目に、彗は帰宅の準備を進めていた。


「なあ、クラス一の秀才君の答えが知りたいんだけど!」


 そう声を掛けてきたのは、明るくクラスのムードメーカーでもある染井拓そめいたく。人格者であることは間違いないだろうが、彗の胸には何かつっかえるものがあり苦手意識を覚えている。


「どの科目?」

「いや~、ゆっくり聞きたいからさ。…このあと一緒にどうだ」

「悪い、今日は両親の帰りが遅くて。夕食の準備を任されてるんだ」

「そうか…。仕方ない。じゃあまた今度な」


 きっと拓はテストの答案など端から聞くつもりもない。クラスで浮き気味の彗を案じて仲良くしてくれようとしている。そしてそれを彗は察しているからこそ、誘いに乗れないのだ。


「だからやめとけって言ったのに。狼は一人だから狼なんだよ」

「なんだよそれ、新手の哲学か? それより早く行こうぜ、新しくできたバナナジュース屋」

「俺バナナ嫌いなんだよな~」

「つれないこと言うなよ」


 拓の取り巻きが彗を誹謗するが、拓はそれを肯定も否定もせず体よくあしらう。


「俺だって、立ち回りの上手い人間になりたかったさ…」


 誰へともなく呟いた言葉を置き去りに、徐々に人影の消える教室から去った。



 普段より少しばかり混んでいる特急列車に五〇分ほど揺られ、家路に着く。駅から彗の家まではさほど遠くなく、歩いて一〇分もすればたどり着く。少し田舎なためか、自然豊かな河川敷を橋で横切る。

 台風が直撃すると予報されていたが、手入れの行き届いていないのであろう背丈の高い草たちが緩やかになびくほどであった。もっと言えば太陽が顔を覗かせているまである。この地域はいつもそう。休校になるとわくわくしていたら深夜に通過、もしくは進路が逸れる。今回は後者だった。

 彗は台風の直撃は確実だと信じて疑わず、夜通し妹の未琴とトランプで大富豪をしていた。二人でやる大富豪はいかがなものかと思うかもしれないが、ネットに載っていたローカルルールを盛りに盛って行うと、これがまた深いのだ。

 結果はすべて未琴の勝利に終わっている。


「にいさん!」

「未琴、おかえり」


 温もりのある、穢れを一切感じさせないその声の主は、妻吹未琴つまぶきみこと。肩のあたりでふんわりと曲線を描く亜麻あま色の髪に、程よく大きな目に高い鼻という端正な顔立ち。ベージュの制カバンを後ろ手に持ち、中学校のシンプルな夏服は、彼女の美少女さを強調している。


「にいさんこそお帰りなさい。あれ、今日はゆう君と一緒じゃなかったのですか?」


 ゆう君というのは、近所に住む幼馴染にして同じ扇洋高校に通う同級生の砂金木綿いさごゆうのことである。


「試験が終わったから今日から部活らしい。あいつは部活一色だからな」

「そっか、にいさんも何かやればいいのに」


 普段、彗は木綿が部活を終えるまで、学校に居残って勉強をしているため帰りが同じなのだが、今日は徹夜のため体力が保てず先に帰ってきた。


「兄さんは妹を愛でるのが部活みたいなもんだからな」

「ふふ。その割にいつもはお帰りが遅いですね。…じゃあ昨日の続きしましょう?」


 髪を指にくるくると絡め、潤んだ上目遣いをする。


「ちょっと待て。兄さんは徹夜でトランプをして、寝ずに試験をこなしてきたんだ。今日は休ませてくれ」

「…けち。いいもん、いいもんね。ふんっだ。……にいさんのばか」

「グッとくる妹のののしりワードを並べても兄さんは動じないぞ」

「グッとはきてくれたみたいなので良しとします」


 参った、と妹の可愛さに白旗を挙げる。頭を撫でると仔猫のように目を瞑り、頭をグリグリしてきた。


「学校は楽しいか?」

「はい、とっても! でもそれって、わたしが一年生の時に聞くべきことじゃありませんか? わたしももう立派な二年生で、先輩です。今日も部活で後輩の子がたくさん私を頼ってきてくれました」

「ごめんごめん。もう立派な先輩か…。成長って早いんだな……」

「もう、親みたいなこと言って…。そういえば伝えるのを忘れていましたが、両親はしばらく日本を離れるそうです。わたしたちのためにお仕事を頑張って下さる両親には、感謝してもしきれませんね」

「子どもは親に迷惑を掛けなきゃいけない義務があるんだ。何も心配することはない」

「そう…ですね。ありがとうございます」

「さあ、家に帰ったら一緒にご飯作るぞ」

「はい、にいさん!」


 彗はこのとき、まだ露ほども想像していなかった。まだそう遠くないうちに、また妹と隣り合わせで帰宅するのを。

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二度目の選択、そして再び間違える 文月樹蕾 @TOLAsan

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