第350話 【真珠】兄の気遣い、貴志の懸念

 その時だった。


「お父さん、僕──晴夏くんと涼葉ちゃんを連れて、衣装室の中を見学してきます。廊下にディスプレイされているものより、たくさんのドレスがあるから、きっと涼葉ちゃんも楽しめると思うんです。そうすれば、二人のお話の邪魔にも……ならないですよね?──いいですか? 晴夏くんのお父さんも……」


 兄が父のスーツを軽く引っ張って許可をとり、次いで克己氏にも確認する。


 鷹司兄妹に目を向けると、二人揃って従順に『聞かザル』ポーズを続行中。

 兄とわたしの視線が自分たちに向けられたことに気づいた彼らは、両耳を塞いだ格好で、同じ向きに首をコテリと倒した。


 その動きのシンクロぶりの可愛さに、わたしの目が釘付けだ。

 鬼かわいいとは、このことを言うのだろう。


 重苦しい雰囲気が漂っていたけれど、晴夏と涼葉の仕草によって、この場の空気が一気に和む。


「真珠は、美沙子さんの後に着替えをする必要があるから、ここを離れられないよね? 一緒に連れて行けなくてごめんね。でも貴志さんがいるなら大丈夫かな?」


 兄が口元に手を添えた。

 内緒話をするときの動作だったので、わたしは貴志にお願いして身体を倒してもらい、兄の口元に耳を寄せる。


「僕も話を聞いていたかったけど、そろそろ涼葉ちゃんが限界だと思うんだ。だから、後で話を教えてくれると嬉しいな」


 どうやら兄も、父親二人の話に耳をそばだてていたようだ。

 加えて、わたしが盗み聞きしていた事実も、兄には筒抜けだったと──そういうことだ。


 兄の囁きは貴志の耳にも入ったようで、「似たもの兄妹め」との科白が貴志の口からもれる。


 兄と一緒にこっそり笑い合ってから、今度は貴志の顔を見て、兄妹揃って「しーっ」と人差し指を口の前に立てた。


 呆れたような表情を見せた貴志は、軽い溜め息を落とし「気をつけて行ってこいよ」と兄に伝えている。


「大丈夫ですよ。顔見知りのスタッフさんもいるので、邪魔にならないように注意もしますから」


 笑顔を見せた兄は、さっそく晴夏と涼葉に声をかけ「一緒に見学に行こう」と手を差し伸べた。


 穂高兄さまと晴夏に挟まれるようにして手を繋いだ涼葉は、その提案に喜ぶものと思っていた──のだが、どうしたことか、こちらをチラチラ見てはモジモジしている。


 その様子は、自分だけがドレス見学を楽しんでも許されるのだろうか。「シィちゃんはお留守番なのに」と、気後れしている態度のように映った。


 折角の機会なので、涼葉には目一杯楽しんできてもらいたい。

 そう思ったわたしは、彼女に声をかけた。


「スズちゃん、あとでどんなドレスがあったか教えて!──たくさん楽しんできてね」


 わたしが笑顔で手を振ると、涼葉は満面の笑みを返してくれる。

 大きく頷いた彼女は真っ直ぐ前を向くと、兄と晴夏と手を繋いだまま、足取り軽く歩きはじめた。


 衣装室に入る直前、兄がこちらを振り返る。

 わたしに対して王子スマイルを見せた彼は、そのまま扉の中に消えて行った。



 先ほどの遣り取りにより、幼いとはいえ兄を絶対に侮ってはいけない、と改めて感じることになったわたしだ。


 天使のような姿で人の目を欺きつつ、しっかり情報を仕入れる抜け目のなさは、ゲームの中の『月ヶ瀬穂高』そのものだ。


 ただひとつ違うとすれば、現在兄の周りには晴夏や涼葉がいるし、最近では隣家の翔平もそこに加わった。


 『この音』の中で、孤高の──という言葉で表現されていた『月ヶ瀬穂高』の、孤独を纏った昏いイメージはない。

 とは言っても、兄のあの穏やかな笑顔の中に見え隠れする怜悧な策士の表情は、密かに育っているのかもしれない。


 そんな兄の頼もしさに、わたしの頬は自然と緩んでいった。



          …



 兄と鷹司兄妹の姿が完全に見えなくなったところで、わたしは父と克己氏に目を向ける。

 父親二人は、既に会話を続行中だった。


 わたしは貴志の肩に顎をのせ、寝たふりをすることにして、とりあえず目を閉じた。


 『聞かザル』ポーズを続けるのは、なかなかに骨が折れるのだ。

 耳を抑えるために持ち上げていた二の腕の筋肉がプルプルと痺れてきたため、苦肉の策を絞り出したわたしは、狸寝入りをしてこの場を凌ぐことに決めたのだ。


 ああそうだ。

 瞼を閉じているので、このまま本気寝に移行しないよう、注意も必要だった。



          …



 父は、克己氏に昨夜の出来事の詳細を語っていた。貴志と交わした話の内容と共に──。


 貴志は、今後起こりうる懸念を含め、過去に起きた母と葵衣の原因不明の確執について、父に話を持っていったようだ。


 今週末に、一時帰国を終える貴志。彼は、今後自分がこの件に直接関与できないことに不安を覚え、万が一の事態──葵衣の件が引き金となって、わたしのバイオリンと兄のピアノが継続できなくなる未来の可能性を父に示唆したようだ。


 そして、もしも母が行動に出た場合、その防波堤になってほしいと、誠一パパに頼んでくれたことがわかった。


 わたしの分数バイオリンを隠していた事実も、貴志から聞いてはじめて知ったのだと、父は溜め息をつく。



 美沙子ママがバイオリンを辞めた理由。

 そして、娘のバイオリンを隠した真意。


 その双方に繋がりがあるのではないかと踏んだ父は、葵衣の名前を口にすることなく、問題の核心に迫ろうと、昨夜の間に奮闘してくれたことがわかった。




 ホテルで貴志と会ったあと、自宅に戻った父は就寝間際の母に質問をしたそうだ。



「学生時代に、美沙子がバイオリンを習っていたと聞いてはいた……が、どうして辞めたんだ?」




 ──と。




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