第349話 【真珠】母の初恋、父の思惑


「克己と貴志くんの電話の遣り取りは昨夜聞いていたからな、お前が今日、このホテルにやって来ることは知っていた。だが、まさかこんなに早くやって来て、しかも鉢合わせするとは──……今の美沙子には、お前でさえも心を乱す相手なのかもしれないというのに……」


 誠一パパは克己氏に向かってそう零したあと、今までの威勢は何処へやら、深い溜め息をついて力なく項垂れた。


 父のその様子に、困惑顔を見せる克己氏。

 わたしも、父が何を考えて口にした言葉なのか把握できていない。


「それはさっきも言ったと思うけど、折角だからついでに涼葉のお願いを聞いてあげようとしただけで……でも、美沙ちゃんの心を乱すって──僕が? 貴志くんの話だと、その相手は葵衣さ──」


「──これに……見覚えがあるだろう?」


 克己氏の言葉を遮った父は、小さな袋を胸の内ポケットから取り出した。

 宝石を保管する用途に使用される、ベルベット調の黒い小袋だ。


「今日の結納の準備で着物を梱包中に……美沙子が席をはずしたんだ。そのとき、つい……手に取ってしまった……」


 昨日の晩、出来心で父がその袋の中身を確認しようとしたところ、不在にしていた母が部屋に戻ってきたのだと言う。

 慌てた父は、思わずそれを搬入する着物一式の中に隠してしまい、そのまま母の手により梱包は完了。小袋を取り出せないまま、ホテルの受付に預け入れることになってしまったのだと告白する。


 今朝方、美容室にコンタクトを取った父は、母に見つかる前に小袋の回収を指示し、それを秘密裏に受け取ったそうだ。

 ホテルの出資者特権というか、職権乱用のような気もするが、父も必死だったのだろう。




 父曰く、母は昔からこの袋を手にしては、時々溜め息をついていたとのこと。


 しかも、他の装飾品の入っているクローゼット内の棚ではなく、その袋だけをまるで『何か』から隠すよう、人目のつかない場所に仕舞い込んでいたようだ。


 何が入っているのか気になりはしたが、母のその様子を心配した父が確認すると、決まって「何でもないの。大したことじゃないわ。誠一さんは気にしないで」と答えるだけ。

 そんな遣り取りが、過去に何度かあったそうだ。


 父はその袋の中から何かを取り出すと、克己氏の目の前に差し出した。


 わたしの位置からは、父の掌に載せられた金色の丸い物体が見える。


 あれは──学生服の……ボタン?


 克己氏はそれをつまみ上げると、裏面を確認しはじめた。


「ああ、これは中等部の卒業式のあとで、僕が渡した……懐かしいな。けど……美沙ちゃん、まだ持っていてくれたのか──でも、このボタンと、美沙ちゃんの心を乱す原因にどんな関係があるの? もしかして、僕の名前入りだったから、捨てるのが忍びなかったってこと? 処理に困っていたというのなら、このまま引き取るよ──大変なときに手を煩わせてしまい、申し訳なかったね」


 克己氏の言葉に、父は躊躇いながら言葉を紡ぐ。


「いや、私に気遣って隠す必要はない。昔のこととはいえ、美沙子にとっては大切な……お前との思い出だ。実はそのことが発端になって、昨夜……夫婦喧嘩をしてしまったんだ。つまり……その……美沙子の初恋の相手……それは、克己──やはり、お前なんだろう?」


 へ?

 いまナント!?


 わたしは『聞かザル』ポーズのまま、電光石火の勢いでギュンッと首をまわして貴志の顔を覗き込んだ。


 その行動で、この耳を完全に塞いでいなかったことが、貴志には即バレた。


 残念なものを見るかのような眼差しが地味に痛い。

 だかしかし、わたしはその残念光線をサッと避け、彼の目を別の角度からジィッと見つめ返した。


 美沙子ママの初恋の相手って本当にこの克己氏なの!?

 教えてくれ──と、貴志に無言で訴える。



 お互いに幼馴染みであるのなら、この克己氏が美沙子ママの初恋の相手であっても何らおかしくはない。


 でも待てよ。

 そうなると、克己氏を起点にして、紅子を含めた三角な図式が出来上がってしまうではないか。


 え!?

 実はカナリ複雑な間柄だったとか!?


 深夜、夢の中に出てきた紅ちゃんと克己くんが頭の中に浮かび上がる。


 美沙子ママと紅子と、この克己氏。この三人で弱肉強食ピラミッドを作るとしたら『最強の覇者』は、間違いなく──紅子!


 故に、美沙子ママに勝利した紅子が、克己氏を戦利品のごとく勝ち獲ったということ……なのか?


 先ほど「大惨事」と口にした克己氏だが、もしや、彼を巡った女の熾烈な戦いでもあったのだろうか。


 だとしたら、誠一パパにとって克己氏は愛する妻の『過去の想い人』。

 彼を避けていたというのも、ほんのちょっぴり頷ける。



 だが、もしそれが事実だったとしても遥か遠い昔のことだ。

 現在の両親は、誰が見ても相思相愛──見ているこちらが恥ずかしくなるほどの仲睦まじさで、はっきり言って脳内お花畑なバカップルと言っても過言ではない。


 なぜ父は、そんな昔のことを掘り返しているのだろう。

 それに、美沙子ママの心を乱すってどういうこと?


 色々な問題がゴチャ混ぜになっているようで、わたしにはまったく理解不能だ。


 しかも不思議なことに、なんとなくではあるのだが、父の意図した思惑はそこにないような気もする。


 まあ、それもわたしの買いかぶり──単なる見当違いかもしれない。おそらくわたしの心が父に望む、そうであったらいいな、という願望の姿が含まれているだけなのかもしれない。


 なにせ父は、母に関しての愛情問題だけは、殊のほか狭量だからだ。



 そんな父が、克己氏に語ろうとしている内容とは何?

 どんな思惑があって、十数年も昔の話を持ち出しているのだろう?


 加えて、目下わたしが気になっているのは、両親が繰り広げたという口論の内容だ。

 母のおめでたが判明し、幸せ絶頂の真っ只中にいる両親が揉めるに至った会話の詳細が知りたかった。


 わたしの頭の中には疑問がいくつも出現するのだが、そのどれについても正答を導き出せない問題ばかりがズラリと並んでいるように思え、うーんと小さく唸る。



 まずはひとつずつ整理してみようと思ったわたしは、今朝からの両親の態度を追ってみることにする。


 結納の前、父がいつにも増して甲斐甲斐しく母の世話を焼き、体調を気遣っていたのは、おそらく昨夜の喧嘩を反省してのこと──というのは、なんとなくわかった。


 美沙子ママの「寝不足からくる体調不良」も、父との言い争いが尾を引き、眠れぬ夜を過ごした結果──妊娠初期の悪阻も重なって具合が悪くなった──ということも、それとなく理解する。


 だが、母の体調不良の度合いがいささか重い。

 精神的に追い詰められたからなのかもしれないけれど、誠一パパから過去の初恋について確認されたからと言って、そこまでの夫婦喧嘩になるとは到底思えない。


 それが、わたしの素直な感想だ。



「誠一くん、さっきから僕のボタンと初恋の繋がりが見えないんだけど……それに、美沙ちゃんの初恋の相手って確か──」


 そう言って、チラリと貴志に視線を寄こす克己氏。


 ──ん?


 貴志……が、美沙子ママの真実の初恋相手……な訳はないか。


 克己氏が何か肝心な話を口にしかけたけれど、父の耳に届いていないのは一目瞭然。

 よって、父は克己氏の言葉を封じるかのごとく口を開く。


「いや、いいんだ。分かっている。幼馴染みであり、初恋の相手でもあるのなら──心の近さが違う。重ねた年月の差だと、自分なりに理解しているし……お互いにとっても特別な存在になるのだろう」


 克己氏は、訥々とつとつと語る父の言葉に耳を傾けているようだ。


 父の声が潜められ、独白めいた科白セリフがもれる。


「昔から、互いの呼び方にも表れていたからな──美沙子は、わたしには常に『誠一さん』だが、お前に対しては『克己くん』だ──」


 克己氏の存在と美沙子ママとの関係に、以前から複雑な思いを抱いていたことが、父の思わぬ本音からうかがえた。


 母への執着愛が高じてのことなのだろうが、父が克己氏を遠ざけていた理由についても、自ずと予測がついてしまった。


 彼と同じ空間にいるときの呼び名で劣等感を覚えた父は、無意識のうちに克己氏と会うことを避けていたと──そういうことなのだ。多分。



 あれ?

 そういえば先ほど、克己氏が父に対して「避けられていた」と、口にしたことも思い出す。


 と言うことは、父と克己氏の二人は、美沙子ママと父が結婚する以前から面識があったということ?


 この二人がどういった知り合いなのか、その謎も深まるばかり。


 駄目だ。

 わたしの頭がパンク寸前だ。



 もう今日は朝から、謎が謎を呼びすぎて、謎だらけで謎過ぎる。




 『聞かザル』ポーズにて、父親二人の会話を盗み聞きしていたわたしだが、結局何も分からず、さらなる袋小路に追い詰められた気分だ。




「すまない……単なる愚痴だ──それに……もう、そのことはいいんだ。私も美沙子も、ここ数年のすれ違いがあったとはいえ、来年には三人の子供の親になる。いまは美沙子だって、私のことを愛してくれている……はずだ」



 深呼吸をした父は頭を振ると、気持ちを切り替えたのか表情を変えた。

 静かに澄んだ双眸を克己氏に向けた父は、ここで初めて本題と思しき話題を口にする。



「克己。教えて欲しい──学生時代、美沙子と近い関係だったお前は、知っているんだろう? 美沙子が昔、バイオリンを辞めた理由を──私が整備に出した真珠の楽器を、思わず隠してしまうほど……音楽から遠ざけようとした──その訳も」



 父が本当に伝えたかった内容は、美沙子ママの初恋相手の追及でも、敬称に対するボヤきでもなかった。

 ボタン及び母の初恋の話題に触れたのは、更に込み入った話をする上での序章に過ぎなかったのだ。


 克己氏の表情が、僅かに強張った。

 それを知ってか知らずか、父はそのまま話を続ける。



「妻を支え、娘の望みを守りたくても、私には美沙子が口を閉ざす理由がわからない。原因を理解していなければ、対処すらままならない──私は夫としても、父親としても、まだまだ未熟者だ……」



 わたしは父の言葉に驚き、目を見開くことしかできなかった。



 父は母に──確認してくれたのだ。

 「なぜ、真珠のバイオリンを隠したのか?」と。



 本当に──変わった。

 それが、わたしの持った、今現在の父に対する印象だ。


 月ヶ瀬誠一は、あのゲームの中の『真珠の父』という役割から外れ、別人のような人生を歩み始めたことが伝わる。


 娘を甘やかし、只ひたすら溺愛するだけの情けない父親ではなく、家族それぞれの人生をより良きものにしようと心を砕き──力になろうとしてくれているのだ。


 父が家族へと向けた深い愛情が滴り落ち、胸の中心に波紋を刻む。

 その波が不可思議な光を生み出しながら、心の中全体に広がっていく。


 得も言われぬ喜びの奔流が、輝きを宿したさざなみに姿を変え、心の奥底へ押し寄せてくるようだ。



 この感情は、『真珠』が生み出した歓喜の思いなのだろうか?



 ──いや、違う。



 これは『真珠』と『伊佐子』の双方──現在のわたし自身が、父に対して向ける『感謝』の気持ちだ。




 少し前に、貴志が口にしていた言葉がよみがえる。


 『義兄さんは、良き父親だと思うがな』


 ──本当に……その通りだ。






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