第351話 【真珠】父の追及、母の声 前編

 ホテルで貴志と会ったあと、自宅に戻った父は就寝間際の母に質問をしたそうだ。


「学生時代に、美沙子がバイオリンを習っていたと聞いてはいた……が、どうして辞めたんだ?」


 ──と。


          …



 祖父が『ユーモレスク』の演奏を貴志に望んだ一昨日の晩、祖父は母にも「バイオリンを弾いてくれないか?」と頼んでいた。


 けれど、母はその願いを断った。


 そのときの様子から、母がバイオリンを辞めた過程には何か複雑な事情があるのではないか? と、父は薄々感づいてたようだ。


 だが、一昨日の時点では、特に気に留めていたわけではなかったのだと父は言う。

 世間一般の傾向なのかどうかは不明だが、勉学に集中するために芸術系の習い事を辞める話はそれなりに耳にする。


 斯くいう父も、ビオラを習っていた時代があったそうだ。

 父自身も受験勉強に集中するため、幼い頃から続けていた芸術系の習い事をすべて経験があるのだと教えてくれた。


 母が「進学のために辞めた」と答えるのならば、それまで。この程度の質問ならば、夫婦の他愛ない会話としても片付けられるので、不自然さもない。


 そう判断した父は、先ほどの質問を母に投げかけた。



 対する母の返答は──「昔のこと過ぎて、忘れてしまったわ」



 明言を避けた回答には、その話題にこれ以上触れてほしくない、という母の意思表示が言外に含まれていた。


 能面のように表情を削ぎ落とし、感情を潜めた母の声から、この件に関しては深追いするのは得策でなさそうだと判断した父は、それならば──と、今度はわたしのバイオリンを隠した理由について、母に確認をとったようだ。


 しかし、その件に関しても、母からの明確な答えは出されずじまい。



 十年以上前の出来事については、母が何を考えているのか予想すらできない。が、娘であるわたしがバイオリン演奏中の舞台で倒れ、意識不明に陥った衝撃は父の記憶にも新しい。


「子供をうしなうかもしれない状況は、筆舌に尽くし難い恐怖だったよ。だから、私と同じ思いを抱いていたであろう美沙子は、バイオリンを隠すことで……あの悪夢のような時間を忘れようとした……。そう結論を出そうとした──だが……なぜか腑に落ちないんだ」


 わたしも以前、父と同じ考えに至り、同様に奇妙な違和感を覚えたことを思い出す。


 バイオリンを嗜んだことのある母は、弦を奏でる難しさを熟知しているはず。それなのに、わたしが繰り広げた演奏に対して、何を問うでもなく、我関せずを貫く姿はどこか異様に映ったのだ。


「……美沙子との会話を、そこで止めておけばよかったのかもしれない」


 父は、それだけ呟くと肩を落とした。


 母にとっての辛い記憶を掘り起こすことになる予感はした。が、今その追及の手を緩めてしまえば、真実は藪の中。

 万が一にも、貴志が危惧する事態が起きたときに、何も知らないままでは対処すらできない。


 微かな焦りのなか、父は『最後の切り札』として、克己氏の存在を持ち出したそうだ。



 父にとっての克己氏とは、母の初恋の相手であり、学生時代の交際相手──真偽のほどはわからないが、少なくとも父には、そう受け取られていたらしい。



 もしかしたら克己氏が、この諸々の問題を解決する糸口になるのかもしれない。そんな期待から、「鷹司克己なら、美沙子が話せない内容についても全て知っているのか?」と、咄嗟に訊いてしまったのだ──と、父は告解するかのような口調を響かせた。


 克己氏は克己氏で、「なぜ僕が、解決の糸口に?」と困惑顔を見せている。


 伏し目がちになった父が、ポツリポツリとその根拠を話し始める。


 わたしが倒れたことで映像公開を禁じたコンクールの開催場所は『TSUKASA』大ホール。その撮影を担当していたのは、克己氏配下にあたる『TSUKASA』の映像音響部隊だ。


「憶測でしかないが……お蔵入りした動画の中に、美沙子が娘のバイオリンを隠した理由が隠されているのではないかと思ったんだ」


 父親である自分でさえも、未だ目にしたことのない娘の演奏動画。その映像は、月ヶ瀬からの……いや──母からの一方的な指示出しで、公開を取り止めることになっていた。


 その問題の映像を、克己氏が観ている可能性に気づいた父は「克己本人にその話を振れば、何かヒントが出てくるかもしれないと考えたんだ」と続ける。


「娘のバイオリンを隠した件について、克己の名を出したのはそういった理由からだ。それから……十数年前の出来事については──」


 少し躊躇いながら、父はもうひとつの根拠についても語った。


 バイオリンをめぐる一連の謎を解くためには、母が口を割らないことにはどうにもならない。

 だが、学生時代の母の交際相手だと予想される克己氏であれば、何か詳細を知っているのではないか──そう見当をつけ、克己氏の名前を出したのだと父は溜め息を落とした。



 ──なるほど。

 ヤキモチにしては、妙にこだわるなと思っていたのだが、そういうことであれば納得だ。

 それで父は先ほどから、母の初恋相手は克己氏ではないのか?──と確認していたのだ。



 ちなみに母は、父からの問いに対して隠しようのない苛立ちを見せたそうだ。


「なぜ、そこで克己くんの名前が出てくるの。彼は無関係なんだから、迷惑をかけないでちょうだい」


 冷たい声色で吐き捨てた母は、そのまま掛け布団の下に潜り込んでしまったそうだ。



 克己氏を庇うような母の言動に、今度は父の中で長年蓄積されていた『呼称』や『母と克己氏との関係』に対する不満が噴出し、その後は完全なる痴話喧嘩に移行してしまったのだ──と、父は顛末を語ってくれた。


 最後の最後で嫉妬心を炸裂させてしまったのは、父が父たる所以なのだろう。



「私は結局、諸問題を解決する糸口にすら辿り着けず。身重の妻には心理的負担を強いてしまったんだ」


 そう洩らした父は、自分の至らなさを恥じているように見えた。



          …



 一連の話を耳にした克己氏は考え込むような仕草を見せ、その眉間には僅かな皺が寄る。


「誠一くんの言う、初恋云々については今は置いておくとして……まずは順番から言うと──葵衣さんのこと。

 昨夜の電話で貴志くんには伝えたけれど、残念ながら、彼女と美沙ちゃんの間に何が起きたのか、僕も本当に知らないんだ。でも、美沙ちゃんがバイオリンから遠ざかったことに、葵衣さん……旧姓は藤ノ宮さんと言うんだけどね──彼女が関わっているのは、十中八九間違いないと思う」


 俯いていた父の視線が、弾かれたように克己氏へと向けられた。




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