第345話 【真珠】藤ノ宮紫織
まさか、あの夢をみた翌朝、貴志が語っていた謎の人物であったパープルに出会うことになるとは、一体誰が予測できただろう。いや、できまい!
しかもそれが、葵衣の関係者だったとは完全なる盲点だった。
紅子情報によると、本日日本への一時帰国を終える久我山一家が主催する食事会がこのホテルにて開かれると聞いている。
だから、葵衣の弟である紫織が、このホテルにいてもおかしくはない……のだが、ちょっと時間的に早すぎやしないだろうかと、訝しく思う。なぜならば、晩餐会は夕方。そして、今はまだ朝なのだ。
──ああ、でも、そうか!
先ほど紫織が複数の桐箱を運び入れていたことに思い当たり、美容室方での事前準備のために着物を運び入れたのだろうと予測し、納得もする。
でも、何かが引っかかるのだ。
それは、なぜだろう?
その違和感の正体は靄に包まれて、今のわたしには判別することができない。
貴志と紫織の会話を静かに聞いていたところ、断片的な情報でしかないが、十数年前に彼らが突然月ヶ瀬家に訪問しなくなった理由も判明した。
当時の藤ノ宮姉弟は、彼らの母親の仕事に帯同する形で海外へ引っ越していたそうだ。おそらくそれは、美沙子ママとのトラブルの直後のことなのだと思う。
当時、葵衣と紫織の母親である現内閣官房長官夫人の藤ノ宮
どうやら、夫である政治家の喜助氏はその実母がサポートをし、朱音は子供二人を連れてのフランス駐在に出向いていたようだ。
赴任の任期も三年と期限が決まっていたため、子供たちの海外見聞を広めるためにも連れていったのだろう。
海外で三年生活していれば、親の帰任後に進学希望する学校での入試に際して帰国子女枠が狙える。学齢期の子供二人の受験対策も兼ねて渡航したのだと、紫織本人も語っていた。
フランスか……なるほど!
それで
シオリ──素敵な発音で、日本語ではとても美しい意味の漢字を当てることが多く、個人的にも大好きな響きの名前だ。
けれど、残念なことにフランス語では『おねしょ』を意味する発音で、しかも、小ではなく大の方だったりするのだ。
子供の頃のトラウマだと、本人が顔面蒼白で謝罪していたが、名前の件では相当苦労をしたのだろう。
同じ駐在員の子供や現地に居住する邦人の子供が通う週末の日本語補習校等で、
本来はユカリという発音であるのに対し、漢字表記を知る者からはシオリと読めてしまう──と言うか、おそらく圧倒的大多数の人間は、シオリと読むとみて間違いないだろう。
なぜわたしがそこまでの予想がついたかというと、それは『真珠』の記憶によるものだったりする。
『真珠』の元バイオリン指導者──
そう──貴志のチェロの恩師である
香坂先生の夫であるチェロ奏者の利根川
可愛い名前だな。
どうしてシェリーなんだろうと思った『真珠』は、香坂先生にその理由を訊いた。
利根川・香坂夫妻の出会いはフランス大学院での留学時代。その時の香坂先生の愛称がシェリーだったそうだ。
その理由として、前述の内容を香坂先生が教えてくれたのだ。
「きみが真珠ちゃん?──美沙子さんの娘さんか。美人さんで、お母さんの面影があるね。いやそれよりも……先ほどは本当に申し訳なかった。ちょっと補習校時代の嫌な記憶を思い出してしまって……小さな女の子に言われるのが、どうも……ダメみたいだ。まさか、こんなに小さなお嬢さんが漢字を読めるとは思わなくて、油断してしまったようだ。今後、より一層気を引き締めていかないと政治家としては非常に不味い」
突然声をかけられたことで、ハッと我に返る。
紫織がわたしの名前を口にしたことから、貴志がわたしの話をしていたことにも今更ながら気づく。
名前の考察をしていたせいで、途中から二人の会話の内容が右から左に抜けていたようだ。
わたしは慌てて、紫織の言葉に応える。
「いえ。お気になさらず。補習校では名前の発音間違いで
貴志の腕の中で、ぺこりと頭を下げる。
「フランス語での意味も、もしかして知っているのかな? すごいね。同級生との関係ではかなり苦労したけど……でも、まあ、そのお陰で、
なんだか色々と大切なキーワードが散りばめられている気がした話の内容だったけれど、紫織が口にした「甥っ子たち」という単語に、わたしの心がビクリと跳ね上がった。
紫織の甥っ子と言ったら、間違いなく──久我山兄弟だ。
美容室ですれ違った際に、誰かに似ていると思ったのは成長後の久我山
「貴志くん、ここで会えてよかった。呼び止めておいて申し訳ないけれど、私もこれから色々と準備があるので、ここで失礼するよ。じゃあ──また、後ほど」
そう言って、藤ノ宮紫織は去って行った。
「また後ほど──って、貴志は紫織さんと何か約束でもしたの? わたし……二人の会話中に、考え事をしていたみたいで、まったく聞いていなかったから、気づかなかったみたい」
貴志は、わたしの言葉に首を傾げた。
「約束は、してないが……名刺をもらったから、それに連絡しろということ……なのか? いや、それよりも──」
紫織の背中を見送る貴志が、眉間に皺を寄せた。
「──どうして、紫織さんが、
──へ!?
てっきり貴志が、わたしの紹介をしていたのかと思っていたが、そうではなかったようだ。
──それって、どういうこと?
謎は更に深まるばかりだ。
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