第343話 【真珠】疲労困憊


 ──つ……疲れた……。


 現在、『インペリアル・スター・ホテル』の美容室にて着付けの済んだわたしは、既に疲労困憊こんぱい状態であった。


 グッタリしながら着物姿の自分を鏡に写すも、普段とは違う自分を感慨深く見つめる余裕すらなく、もう絶対に動きたくないとさえ思っている現状だ。


「お嬢さま。お気に召していただけましたでしょうか?」


 メイクアップアーティストのお姉さんと着付け師のお姉さん二人が、全身鏡と大きめの手鏡を駆使して、後ろ姿まで見せてくれるのだが、わたしは「はい、ありがとうございます」と伝え、愛想よく笑うのが精一杯だった。


 真珠の身体は、本当に体力が無さ過ぎだ。

 いや、わたしが過去──着物を着た際の記憶が曖昧だったゆえ、自分の体力配分を見誤ったのも敗因のひとつなのだろう。



 髪を結い上げ、お化粧を施すのに一時間とちょっと。

 その後の着付け時には、着物姿を美しく見せるための秘密兵器──『タオル巻き巻き攻撃』が胴に繰り出されたのだ。しかも一枚では足りず、更にもう一枚、いや二枚三枚と巻きつけられることになった。


 巻きにされたような気分だ。胴回りだけ。


 この身体に体力がないのは、この細さ──いや? 薄さによるものなのかもしれない。



 着付けの途中で何度も──あれ? 着物を着るのって、こんなに大変だったっけ?──と首をひねった。


 幼い『真珠』の記憶を掘り返してみたのだが、着物を着たのは三歳時──七五三の時点での記憶しかない。

 浴衣をおまけで着物にカウントするとしたら、直近では翔平宅にて行われた花火会参加時だ。


 思えば二年前の七五三に使った帯自体が材質からして違ったのだ。今回はしっかりとした帯を使用しているのだが、前回は浴衣と同じく柔らかな兵児へこ帯だったような……いや? 結局、兵児帯も使わなかったのだったっけ?

 被布を着用するため胴回りは殆ど隠れてしまうことから、見た目重視というよりは着心地優先にて着付けをしてもらっていたことも思い出す。


 その更に昔──伊佐子時代まで記憶を遡った場合、着物を着た最後の思い出は六歳の夏。日本に一時帰国をしたときにあわせて記念撮影をした──帯解きだ。

 当時のわたしにとって着物とは『Kimonoキモノ』であって、プリンセスよりも上にある空想の世界の産物──謂わば特殊アイテムに近い存在だった。

 それ故に「トラディショナル・コスチューム〜!」と大興奮していた記憶と、妙にはしゃぎ回っていた思い出しか残っていない。


 ちなみに伊佐子二十歳はたちの記念すべき成人式は、帰国するタイミングが合わなかったこともあって、振袖での記念撮影はなかった。


 ただ、両親や祖父母は、せっかくだから振袖の写真は残しておきたいとのことで、凱旋コンサート後の休暇に、母の若かりし頃の晴れ着を着る予定でいた。が、残念なことに両親や祖父母の夢を叶えてあげることはできなかった。


 ちょっとシンミリしてしまったところで、目を閉じる。疲れにより気持ちがネガティブに傾きはじめたことに気づき、早々にメンテナンス──落ち込む前に気分をリセットだ。


 着付け師のお姉さんが「それでは私は、お嬢さまのお母さまのところへ行ってまいりますね」と言って去っていった。


 その後ろ姿を見送り、母は大丈夫だろうかと個室の扉を見つめた。

 実は、わたしが心身共に疲れている原因は、着付けでヘトヘトになってしまったこと以外にもあったのだ。


 そのくだんの人物とは、美沙子ママだ。

 現在髪のセットを終えた彼女は着付け室にこもって、祖母と共に身支度をしているところだ。


 先ほど美容室で顔を合わせたとき、彼女は顔色が優れず元気もあまりなかった。

 妊娠初期の悪阻なのかと心配をしたが、どうもそうではないらしい。


 ──着物を着て、本当に大丈夫なのだろうか?


 心配したものの、母からは「体調は問題ないのよ。ごめんなさいね。心配させてしまって」との言葉が返ってきたので、現在様子をうかがい中のわたしだ。


 母と祖母は、共に色留袖を着るようだ。

 美容室にやってきた母は、既に上品なワンピースを着用していた。わたしが「ワンピースでは駄目なの?」と訊ねたのだが、母は首を横に振ったのだ。


 母曰く、新郎新婦それぞれの親──実際には、貴志の場合は親代わりになるのだが──は、着用する服装の格を合わせる必要があるとのこと。

 ちなみにここで言う新郎とは、貴志。

 新婦は、わたしだ。


 色留袖で結納の席に臨む予定だった二人の着付けの準備は、前日から始まっていたらしい。

 誠一パパの手により、本日着用予定の二人分の着物及び装飾品セットが美容室に運び込まれたのが昨夜のこと。滞りなく着付けを進めるにあたり、運び込まれた荷物は荷解にほどきされ、専用の個室で主の訪れを待つのみになっていたようだ。


 美容室側での準備が整っていたこともあり、そこからの予定変更となった場合、スタッフ側に迷惑をかけることにもなる。そのことを理解していた母と祖母は、お互いにそのまま色留袖を着用すると決めたのだろう。


 母のことを考えていたところを、スタッフのお姉さんに声をかけられビクリと肩を震わす。


「お嬢さま、葛城さまがお迎えにいらっしゃいました」



 ──そうだった。

 母と祖母の準備には少し時間がかかるので、貴志が早目に迎えに来てくれることになっていたのだ。


 美容室は予約制ではあるが、写真館にて記念写真を撮るお客様も利用するし、結婚式を迎える花嫁さんも使用する。

 充分な広さもあり、大理石の床と小洒落た調度類に囲まれたこの素敵空間は、居心地も最高で正直言って離れがたい。

 だが、準備が終わったのなら邪魔にならないよう早々に退散した方がよいことも理解している。


 わたしは小股の歩みを心がけ、貴志の待つ入口周辺に静々と進む。

 スタッフのお姉さんが、わたしの転倒防止のために気遣いを見せ、優しく手を引いてくれたのは子供心にも嬉しかった。


「葛城さま、月ヶ瀬さまの準備が整いました。ご確認をお願いいたします──いかがでしょうか?」


 貴志の前にて、お姉さんの手によりゆっくりと回転させられる。


「なんというか……うん──七五三、だな」


 その言葉に、わたしはジト目になる。


 貴志め。

 おぬし、笑っておるな!──しかも、含み笑いときた。

 それに五歳の七五三は男児の祝いなのだぞ。


 既にお疲れモードに突入状態のわたしは、ムッとした表情を隠すことなく見せた。


 それにいち早く気づいたお姉さんが「とても可愛らしくていらっしゃいますよ」とすかさずフォローしてくれる。


 さすが『インペリアル・スター・ホテル』専属のスタッフだ。

 おそらくマリッジブルーに陥る花嫁さんや花婿さんの心の機微を感じとり、日々培った感覚にて「これはマズイ」と対処してくださったのだろう。


 貴志よ。命拾いをしたな。

 このお姉さんによって、おぬしは救われたのだ──わたしの不機嫌爆弾の集中砲火から。


 ──いや……マズイ。

 この程度のことでへそを曲げるなんて。


 わたしの心の中は『子供心』の苛立ち八割、『大人精神』による焦り二割のミックス状態だ。


 チビっ子の持つ、制御不能な感情の嵐を舐めてはいけないことを思い出し、『大人精神』が青くなる。


 わたしは自制の効かないムスッとした顔のまま、貴志に向かって手を伸ばす。勿論、部屋まで抱っこしてもらうためだ。


 貴志の手に草履を手渡したお姉さんに向かって、必死になって笑顔をつくり感謝の言葉を述べた。が、貴志に顔を向けた途端、その顔は顰めっ面に変わる。


 この変わり身に、貴志は苦笑し、お姉さんは笑顔を崩さない。


 わたしだって必死なんだ。

 こんなところで癇癪を起こすのは、まっぴら御免。



 わたしを抱えた貴志が退出しようとしたところ、薄手の桐箱を複数抱えた二十代半ばの男性が美容室の中に入ってきた。



 すれ違う際に視線が合う。


 ──あれ? この顔……。


 面差しが誰か見知った人間に似ているような気がした。けれど、その人物が思い出せない。




「葛城さま、月ヶ瀬さま、本日は当美容室をご利用いただきありがとうございました」


 お見送りの言葉を受けたわたしは、ハッとしてからお姉さんに手を振った。

 他人に気を取られている場合ではなかったのだ。


「真珠、しっかりつかまっていてくれ。抱き上げるのも着物だといつもと勝手が違うんだ。着崩れないように注意もしないといけないしな」


 貴志の声に、わたしが頷く。


「わかりました。貴志……兄さま」


 去り際に、先ほどすれ違った男性から注がれる視線に気づき、その顔を視界に入れたところ──その男性が、小さく呟いた。



「──貴……志……?」



 はっきりとは聞こえなかった。

 だから、もしかしたら気のせいなのかもしれない。


 だがその男性は、貴志の姿を凝視しつづけている。



「──知り合い? いまあの人、貴志って言ってたよ?」


 貴志が振り返ったときには、その見知らぬ男性はスタッフの女性との会話を開始していたようで、こちらに背を向けていた。


「いや? 人違い……じゃないか?」


 その後ろ姿にも見覚えがないらしく、貴志は不思議そうな顔をして首を傾げた。




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