第342話 【真珠】平和な朝の光景か?


 眠い目をこすりつつ洗面台へと向かう。

 顔を洗ったあとは、寝室に戻って着替えだ。


 胸元のボタンを外すため、夜着を上から見下ろすと、白いガーゼの布地が床に向かってフワリと広がっていた。

 夢見が悪くて深夜に汗をかいたが、現在着用中の寝間着──貴志からプレゼントしてもらった『インペリアル・スター・ホテル』人気商品は──吸汗性及び発揮性においても優れていたことが証明された。

 例の腹巻き短パン付きのウェディングドレス調パジャマのことである。


 そう言えば、あの不可思議な夢の中、幼いタックンはこの夜着を花嫁衣装と勘違いしていたのだったなと、遠い目になる。


 待て、わたし。

 あれは単なる夢と結論づけたはずではないか。

 深く考えたら負けだ。いや、わたしは何と勝負をしているのだ? 謎だ。


 ふいに『この世の不思議現象解決担当』──エルの顔が思い浮かぶ。

 たしか彼も、姪に当たる姫君にこのドレス調寝間着を土産にすると言っていたっけ。

 見た目だけではなく実用性も高いので、姫君本人もそのご両親の王太子殿下ご夫妻も気に入ってくれることだろう。


 エルとラシードは、今日の未明にホテルを発つと言っていた。おそらく既に空港に到着し、アルサラームに向けた空の旅を楽しんでいる頃だろう。


 彼らの旅路の無事を祈り、わたしは腹巻き付き短パンをいそいそと脱いだ。




 シンプルなワンピースに着替えたわたしは寝室の扉を開け、居間に足を踏み入れる。


 その途端、美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐった。

 匂いの元を辿ると、ダイニングテーブルに行き着く。


 いつの間にやら、ルームサービスで運ばれた朝食が綺麗に並べられていたようだ。


 居間に戻ってきたわたしに気づいた貴志が顔を上げ、ソファから立ち上がる。その手には経済新聞が握られ、わたしの支度が終わるまでの間、目を通していたことがうかがえた。


 新聞を片付けた貴志は、そのままテーブルに移動し、わたしのために椅子を引く。

 彼の気遣いはスマートで、押し付けがましさもなく、本当によく出来た男だなと感心しきりだ。


 感謝の言葉を伝えながら着席し、テーブル上にセッティングされた二人分の朝食を眺める。そこには、各々一人前の洋食と和食が並んでいた。


 ちなみに洋風朝食は、貴志がオーダーしたもの。

 彼の席の前には、珈琲コーヒーと厚切りトースト一枚、エッグベネディクトとサラダ、それからスープが置かれていた。

 貴志の胃腸は調子でも悪いのだろうか。

 ワンプレートの上で彩りあざやかに盛り付けられているのだが、どれも量が少ない。


 わたしはというと、豪華な和食を選んでいたので、お子様メニューと言えどもしっかりした量がある。

 焼き魚とこうもの、ほうれん草の胡麻和えにヒジキと大豆の煮物、それからヨーグルトも目に入り、その上には燦然さんぜんと輝く黄桃が添えられていた。


 手前に置かれた玄米入りご飯と根野菜の味噌汁からは白い湯気が立ち昇り、美味しい予感しかしない。


 この朝食を完食したら、お腹がはち切れんばかりに満たされること間違いなしだ。


 わたしは満面の笑顔で「いただきまーす!」と掌を合わせ、箸を手にとった。のだが、貴志から食事についての自制を促されてしまう。


「真珠、食べ過ぎるなよ。今日だけでいいから、八分目で抑えるんだ。わかったな?」


 食事の量は八分目くらいが健康にも良いと耳にしたことがある。真偽のほどはよく分からないが、毎食満腹になり、時には動けなくなるほど食べるわたしの胃袋事情は、既に彼の知るところ。

 連日の食欲旺盛ぶりを目にしていた貴志は、「そんなに胃腸を酷使するな」と心配すると共に、ナント食い意地のはったお子さまなのかと呆れてもいるのだろう。


 ──地味に恥ずかしい。


 実は、乙女心の芽生えにより、貴志の前では食べる量を控えようかと思いはじめていたりする今日この頃──なのだが、残念なことに、まだ実行に移していない。


 控えるならば、この食事から始めるのが丁度よいのではないかと思いつつも、目の前に並んだ小鉢はわたしの好物ばかり。

 できることなら食べつくしたい。



 わたしからの返答がなかったことを不思議に感じたのか、貴志の食事の手がとまる。

 こちらに顔をむけた彼の手には、バターの塗られた厚切り食パンがあった。


 ──美味しそう……。


 キツネ色に煌めくトーストの焼き目に視線を奪われ、わたしは貴志の手元に釘付けだ。


 何を思ったのか、貴志はわたしの前にトーストを差し出した。


 餌付け効果の条件反射だったのかもしれない──わたしはパクッとそれに食いつき、ひと口だけご相伴に預かる。

 遠慮する、という選択肢は思い浮かばなかった。


 口に入れた途端、表面のサクッという食感のあとに香ばしいバターの風味がジュワッと溢れ、その直後にモッチリふわっとしたパン生地が出迎えてくれた。


 ──なんだこれは!

 めちゃめちゃ美味しい。


 感動しながら咀嚼してゴクリと飲み込み、最後に水を口にしてからホゥと息をつく。


 いや、待て! わたし。

 餌付けをされて、舌鼓を打っている場合ではない。


 ──と言うか、貴志がパンを差し出すなんて……わたしはそんなに物欲しそうな目をしていたのだろうか。


「どうした? 美味いのはわかるが、少し抑えろよ?──食事中にする話題ではないが──着物を着た後は、お前ひとりでトイレに行けないだろう? 誰かの介助が必要になった場合、義兄さんが世話をすることになるはずだ。お前が構わないならそれでもいいが、念のため伝えておく」


 ああっ なんたることだ!

 お子様の身体の不便さを、すっかり失念していた。


 洋服ならひとりでも用を足せるが、確かに着物を着ていたらお手洗いに行くのも一苦労。


 加えて、母も祖母も今日は着物を着るのだと言って張り切っていたので、貴志の忠告通り、わたしのトイレ担当世話係は、必然的にスーツ着用の誠一パパになるのだろう。


 父と一緒に眠れるようになったが、さすがにトイレの介助だけはご遠慮申し上げたい。


 どうやら貴志は、この先に待つトイレ事情にて、わたしが悶絶する未来を見越していたようだ。




 だがしかし、こんなに美味しそうな朝食を残してしまうのも勿体無い。


 完食すべきか否か──悩ましい葛藤が生まれる。


 着物を着るのなら尚のこと、ここでしっかり食べておかないとお昼まで保たない気もする。

 普段と違う格好をするのも、エネルギー消費は激しいのだ。


 朝食のあと、しっかりトイレに行けばきっと大丈夫だろう。そう判断したわたしは食事を続行する。


「心配してくれてありがとう。でも折角だから全部食べるよ。お残しはいけないんだよ?」


 勿体ないお化けも出てしまう──と言って、わたしは味噌汁を口に含んだ。


 ──これも美味しい!


 昆布と鰹の出汁がほどよく効いた上品な味だ。

 イノシン酸とグルタミン酸が手に手を取って、お口のなかでダンス中。絡み合う絶妙な味に満足しながら、わたしはもうひと口だけ味噌汁をすすった。



「残した食材が廃棄されるのが嫌だ、というのなら、お前が残した分は俺が食べる。そこは気にしなくていいぞ」


 エッグベネディクトにナイフを入れた貴志がこちらをチラッと見て、気遣いをみせる。


 貴志は半分にカットした卵をフォークにさし、じんわり流れ出す黄身をすくっている最中だ。


 ──これも、かなり美味しそう。


 卵の美しさに見惚れていると、またしても貴志の手により、エッグベネディクトがわたしの口元に運ばれた。


 今度もわたしは迷いもせず、パクッと食らいつく。

 トロリと溢れた黄身が舌の上に広がり、その濃厚な味わいに、わたしはウフフと笑みを洩らした。


 いや、正気に戻れわたし!

 ウフフとか笑っている場合でもない。



 貴志も食べ過ぎるなと言うくせに、ついいつもの癖なのか、わたしの口に食べ物を運んで餌付けをしてしまうようだ。


 言っていることと、やっていることが支離滅裂だ。



 悲しい哉──食事中は貴志がポンコツ化し、まったく使いものにならないことが判明してしまった。



 己の意志で制限をかけないと、延々と餌付けされ続け、深刻な事態を招くことに改めて気づく。



「育ち盛りだからな、食べられるならそれでも構わないが、着物を着るんだろう? よく分からないが、帯をつけるときに苦しくなったりしないのか?」


 わたしはハッと息を呑んだ。

 帯を締め上げられ、胃の中で行き場を無くしたが、万が一にもリバースしたら大惨事!

 着物も美容室も汚してしまうし、その被害は甚大だ。


 現場の悲惨な様子を思い描いた途端、やはり食べる量を控えようと観念したわたしだ。



「それから、昼の会食では朝食とは比べ物にならない量が出てくるぞ。だから俺は朝の食事を少なめにしているんだが……お前の胃袋は何というか──ブラックホールだな」


 なにおう!

 わたしの胃袋を、光まで飲み込むブラックホールに喩えるとは、なんたる物言いだ。


 プチ憤慨したものの、かと言って食欲旺盛な事実には反論できず、わたしは無言で焼き魚を口に放り込んだ──……美味しい。



 自制の結果、わたしは全品三分の二だけ食べ、残り三分の一は貴志に平らげてもらうことになった。


 貴志から「よく我慢できたな。偉かったぞ」と頭を撫でて褒められたのだが、色々な意味で非常に複雑な心境だったことを申し添えておこう。




 歯磨きを終えたわたしに、貴志が声をかける。


「そろそろ時間だ。美容室まで送っていく。着物はもう届いているから、行けば着せてもらえるはずだ」



 うん!

 いまのところ、至って平和な時間が流れている。


 おそらく、美沙子ママと葵衣が鉢合わせすることもないだろう。


 紅子と葵衣のランチデートは、わたしの結納場所とは離れたレストランだし、貴志も紅子と情報交換しながら配慮してくれているのだ。


 大丈夫。今日はきっと、昨日とは違って、穏やかな一日を過ごせるような気がする。


 そんな根拠のあるような無いような、微かな希望が心の中に湧きはじめ、わたしは着付けのため貴志と一緒に部屋を出た。



 美容室に向かう道すがら、貴志が祖父からの伝言を教えてくれた。


「ああ、そうだ。父さんから『結納を頑張る真珠に、ご褒美があるから楽しみにしていてくれ』とのことだ──なんでも、お前がモノマネをして遊んでいた有名人と会わせてやるんだと張り切っていたが、一体誰なんだ?」


 へ?

 『真珠』がモノマネをして遊んでいた有名人?


 見当もつかない。

 誰だ? ソレは?


 わたしはコテリと首を倒した。




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