第338話 【閑話・真珠】「知らない」と「もう、いない」
貴志と交わした話の詳細を思い出そうとした瞬間──わたしの身体はどうしたことか、月ヶ瀬家の二階に移動していた。
突然の場面転換に驚いたが、夢とはきっとそういうものなのだろうと、自分を納得させる。
「美沙子、また明日来るからな」
「美沙ちゃん、お大事に。僕もまたお邪魔するね」
紅ちゃんと克己くんの声が廊下に響く。
先ほどまで、紅ちゃんが持っていた封筒は既になく、美沙子ママに手渡されたことがわかった。
ドアの前で、部屋主からの返答を待っていた二人。だが、美沙子ママの声は聞こえない。
「美沙子、紅子ちゃんと克己くんに、キチンとご挨拶をなさい」
祖母の声だ。
今も張りのある声ではあるが、更に若さを感じる凛とした声音だった。
「ちーちゃん、今はいいんだ。また明日お邪魔させてもらうから」
「おばさん、気にしないでください。美沙ちゃんも大変だと思うので。また明日、紅ちゃんと一緒に来ます」
これがここ最近の、彼らの日常的な別れの挨拶になっているのかもしれない。
紅ちゃんと克己くんは室内に向かって「また明日」と告げ、静かに扉を閉めた。
「本当に申し訳ないわね──二人とも、外は冷えたでしょう? 帰りはいつものように榊原さんにご自宅まで送り届けてもらえるようお願いしてあるから、今日も音楽ルームで宿題や楽器の練習をしながら待っていてね。すぐにケーキとお茶を持っていくから。あ! 洗面所で、手洗いうがいはしっかりね」
祖母はそれだけ伝えると階段を降りていき、その後を克己くんが慌てて追いかける。
「おばさん、ありがとうございます。僕も手伝います。バイオリンを置いたらすぐキッチンにうかがいますね」
紅ちゃんも二人に続き、わたしの目の前を通り過ぎて行った。
どうやら彼らの目に、わたしの姿は映っていないようだ。
そういえば、タックンはどこに行ったのだろう?
ここに彼の姿はなかった。
扉の開く音が廊下の奥から届き、そちらに目を向ける。すると、ダウンジャケットを脱いだタックンが、ゆっくりと歩いてきた。
二階はシーンと静まり返り、どことなく物寂しさが漂う。
階下から届く活動音の賑やかさも手伝い、その対照的な様子が寂しさに拍車をかけた。
同じ家の中なのに、階下と二階の雰囲気の違いが妙にリアルで、この夢が現実だと言われても信じてしまいそうだ。
タックンは美沙子ママの部屋の前で足を止めると、ノックをせずに扉を開け、僅かな隙間から声をかける。
「美沙──赤と
部屋の奥からの返答は、相変わらずない。
タックンは憂いの表情を見せ、開けたときと同様、黙って扉を閉めた。
俯いたままの彼は階段に向かって歩いてくる。
今までのタックンの態度からも、わたしの姿はその目に映っているのだろう。
慰めたい気持ちが湧き上がった。だが、わたしは考えた末、彼に伸ばそうとした手を止めた。
躊躇した理由は、今のわたしと彼の間には面識がなかったから。意気消沈する彼を元気づけようとしても、不審がられるのが関の山。それに──
大人になった貴志であれば、誰とは知らない人間に、悄然とした姿を晒すことを間違いなく
わたしは、まわれ右をするとシャワールームの中にスルスルと入り、タックンの前から姿を隠す選択をした。
物音を立てることも壁に阻まれることもなく、自由に移動できるのは、こんな状況に出くわしたときに役立つようだ。
シャワールームに隠れたわたしは、タックンに見つからずに済んだことに、ホッと胸をなでおろした。
その直後のことだった。タックンが慌てたように走り出し、一目散に階段を駆け降りていく音が響いたのは。
階下から誰かに、名前でも呼ばれでもしたのだろうか?
タックンが走り去ったあと、わたしは美沙子ママの部屋に入ってみることにした。
今の彼女の様子を、ひと目確認したかったのだ。
けれど、彼女はベッドの中に潜り込んでいたため、その姿を目にすることはできなかった。
キッチンでは、祖母と克己くんが天候や学校の様子を話しながら、お茶の準備をはじめていた。
克己くんは、何度もこうやって祖母の手伝いをしているのだろう。
しまってある茶器の棚や、茶葉の位置も完全に把握しているようで、必要な物をテキパキと取り出している。
祖母の近くにタックンを探したのだが、見あたらない。
いないとなると気になってしまうのは、人間の
彼は紅ちゃんを苦手としていたようなので、音楽ルーム以外の部屋を調べたのだが、そのどこにも彼はいなかった。
もしもの可能性を考え、わたしは音楽ルームへと向かい、壁から部屋の中に入ることにする。
ドアノブに
室内に足を踏み入れたわたしは、部屋の様子を確かめる。
現在の月ヶ瀬家の音楽ルームの配置と変わらず、中央に置かれた大きなテーブルが目に入り、その上にはシルバーのバイオリンケースが置かれていた。先ほど克己くんが背負っていたものだ。
お目当ての人物は、そのテーブル近くのソファに座っていた。室内には、タックンと紅ちゃんの二人だけだ。
いつから見ていたのだろう。タックンは、驚いたような表情でわたしの姿を目で追っている。
彼と再び視線が合ったわたしは、笑顔を見せた。
見知らぬ女の子が突然笑いかけたことに驚いたタックンは、ビクリと身体を揺らし、氷のように固まった。
ちょうどそこに、紅ちゃんの声が降ってくる。
「タックンがひとりで来るなんて珍しいな。どうした? 何かあったのか?」
タックンは、再び肩を揺らすと、視線を紅ちゃんに移した。
二人の間には、物理的に微妙な距離があった。
その間合いのとり方に、タックンの紅ちゃんに対する警戒のほどが如実に表れているような気がする。
「……今日の美沙は、赤と
紅ちゃんの返答は「否」──首を左右に振ることで、タックンにその答えを伝えたようだ。
紅ちゃんのその仕草に、タックンは小さく溜め息をつく。
「美沙が笑わないのは、もしかしたら、タックンのせいなのかもしれない」
そう口にしたタックンは、かなり思い詰めたような表情をしている。
彼のその態度に、紅ちゃんは不思議そうに首を傾げた。
「美沙子が笑わなくなったのがタックンのせい? どうしてそんなことを思ったんだ? 言ってみろ」
「タックンね、『どうして青は遊びに来ないの? 赤しか来ないよ』って美沙に聞いたの。そうしたら美沙は『青って誰? そんな人、知らない』っていうんだ──青はいるよね? 赤も一緒に、青と遊んでたよね?」
今までのタックンや紅ちゃんたちの会話の端々から、美沙子ママは葵衣との件で相当なショックを受けていたことがわかっている。
だから、タックンからの質問に対しても感情がセーブできず、母がそう答えてしまったことは予想がついた。
彼女は、葵衣の存在自体を記憶から消したいと思うほど、悩んでいたのかもしれない。そのために、タックンからの質問に対して、葵衣の存在を否定する言葉が零れてしまったのだろう。
今は大人の美沙子ママも、この時期は思春期だ。
大人にもなりきれず、子供でもない不安定な年齢だったことも重なって、小さなタックンにも素っ気ない態度をとったことは想像に難くない。
そうとは知らないタックンは、自分の記憶が間違っているのかもしれないと不安になってしまったのだ。
一緒に遊んでいたはずの葵衣のことを「知らない」と言われたら、混乱もするだろう。
木嶋さんに確認をとらなかったのだろうか? とも思ったけれど、この頃木嶋さんは娘さんの出産で長期休暇中だったと昼間聞いたばかり。
祖母も木嶋さんがいない間の家事を一手に引き受け、更には美沙子ママの件も重なり、質問しづらい雰囲気もあったのかもしれない。
今のタックンが、『青』について確認できる相手は、紅ちゃんの他にいなかったのだ。
紅ちゃんは顎に手を当て、「ふむ」と言いながらタックンの話を聞いている。
彼女の瞳の中にも、小さな憤りが見え隠れしているようだ。その理由はわからないけれど、その怒りの矛先は美沙子ママに対してと言うよりは、どちらかというと葵衣に向けてのもの。
わたしは紅ちゃんがタックンに伝えた言葉で、そのように受け取った。
「アオはな……
彼女が本当に伝えたかったのは、今まで一緒に遊んでいた葵衣は変わってしまった、ということなのだと思う。
そんな複雑な心境が内包された言葉は、大人であれば間違いなく理解できただろう。
でも、タックンは幼い子供だ。紅ちゃんが言葉に潜ませた本当の意味まで慮ることはできない。
言葉の通りに受け取ったタックンは、不安そうな表情を見せた。
「青は──いない? やっぱり、いなかったの? じゃあ、あれは誰だったの? タックン、夢を見てたの?」
タックンはかなり困惑しているようだ。
美沙子ママとも「いる、いない」で、同じような問答を繰り返していたのかもしれない。
二人の人間から「いない」と言われてしまったのなら、幼いタックンにはどうすることもできない。
自分を納得させようとしているのだろう。タックンは拳を握って俯き、黙り込んでしまった。
しばらく無言でいた彼が顔を上げたとき、諦めにも似た感情がその双眸には宿っていた。
タックンは再び質問を口にしたが、それはもう『青』についてではなく、美沙子ママの今後についてのことだった。
「美沙は、また笑うようになる? タックンは美沙を困らせた? 『青』のこと『いたのに』って何度も言ったから? やっぱり、美沙が笑わなくなったのは、タックンのせい?」
紅ちゃんは、タックンの気持ちにまで心を配れなかった自分に気づいたようで、しまったというような表情になった。
憔悴するタックンの姿を気の毒に思ったのか、彼女は打開策を探しているようだ。その様子をうかがっていたところ、紅ちゃんの表情がキラリと輝いだ。
タックンを宥める良い方法を思いついたのだろう。
二人の間にあった距離を、身を乗り出すことによってグイッと詰めた紅ちゃんは、タックンの両肩を掴もうと手を伸ばした。
彼女の予測不能の行動に、常日頃の条件反射なのか、咄嗟に逃げの体勢に入ったタックン。結局、間に合わず、紅ちゃんに捕獲されてしまったようだ。
「タックン。いや──貴志。利口なお前には、やはり隠し通せないようだ。だから今まで話せなかった真実を伝えよう」
紅ちゃんは、そんな不思議な科白を口にしたかと思うと、真剣な眼差しでタックンを見つめた。
「真実? 赤はタックンに、嘘をついていたってこと?」
首を倒したタックンは、紅ちゃんのことを訝しそうに見上げていた。
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