第336話 【閑話・真珠】「赤!」とタックン 後編


 会話に割り込んできた、この青少年。

 フワッとした柔らかな髪質から、なぜか涼葉を連想するのだが、その目鼻立ちは前述の通り晴夏に似通っていた。


「ん? どうした、克己かつみくん。チューとはキッスのことだぞ。それよりもな、まずは刮目かつもくせよ! このタックンの極上のホッペ! これを見たら、吸い付かずにはいられんだろう?」


 紅ちゃんは手をワキワキさせながら、タックンの両頬を凝視している。その熱視線は、獲物を見据える豹そのもの。


 タックンの全身からは、紅ちゃんに対する警戒警報が発令中だ。

 その様子を目にした克己くんが、紅ちゃんとタックンの間にスッと身体を滑り込ませた。


 安堵したタックンは顔を覆っていた腕をおろし、克己くんの後ろに隠れると「ありがとう──かつくんは青みたいだけど、もっと優しいからもっと好き」と小さな声で伝え、背の高い克己くんの身体にピトッと抱きついた。


 タックンよ。

 可愛いが過ぎるぞ!


 頼られた克己くんも優しい微笑みを見せて、タックンの頭にそっと触れている。


 ──わたしも頭を撫でてみたい。


 どうしよう。

 紅ちゃんの気持ちがわかってしまった。

 いじり倒したくなる可愛さは、超新星爆発級なのだ!


「紅ちゃん、タックンが嫌がっているよ。可愛いから構いたくなる気持ちもわかるけど、タックンは男の子なんだから、そんなことをしたら駄目だよ──紅ちゃんは、女の子でしょ」


 克己少年は、真っ当な言い分にて紅ちゃんの説得を試みるのだが、彼女の耳には届いていないようだ。


「このホッペに心を動かされないとは驚いた。それとも、なんだ? お前はチューをしたい側ではなく、して欲しい側の人間か? それなら……毎日一緒について来てくれる礼にしてやってもいいが、お前はわたしよりも、美沙からしてもらった方が嬉しいだろう?」


 ワハハと豪快に笑う紅ちゃんとは違って、克己くんは顔を真っ赤に染めている。


「いや、紅ちゃんから、して欲しいか、してほしくないかと聞かれたら、して欲し……じゃなくて、それは流石にちょっとマズイ……主に僕の心が──って、え? ちょっと待って? どうしてそこで美沙ちゃんの名前が出てくるの!?」


 最初は照れながらモジモジしていた克己くんなのだが、途中から声のトーンが上がった。


 紅ちゃんは手にしていたレターサイズの封筒をヒラヒラさせながら、首を傾げる。


「どうしてって? お前がコバンザメのようにわたしにまとわりついて、放課後に美沙子へのプリントを届けに毎日やって来る理由は唯ひとつ──そういうことなんだろう? わたしはわかっているぞ」


 克己くんも、紅ちゃんにならい、不思議そうに首を倒した。


「コバンザメっていうのは聞き捨てならないけど、その前に……わかっているって? 何を? いや……待ってよ。紅ちゃんが言う、そういうこと、ってどういうことなの?」


 彼の眉は、既に八の字を描いている。


「どういうことって──お前、美沙子に気があるんだろう?」


 あっけらかんと言い放つ彼女の言葉を聞いた克己くんの時間が、一瞬だけ止まった。


「は? ちょっと待って? 今、何て言ったの? 僕が、美沙ちゃんを……? いや、どうしてそんなことに……もう……誰か説明して……」


 驚愕に目を見開いた克己くんは、最初は疑問をあげ連ねていたのだが、次いで力なく呟き、最後は誰かに助けを求めはじめた。


「照れなくてもいいだろう? 見ていればわかる。お前は昔からなかなか良い人間だから、美沙子との仲を取り持ってやらんこともないが、今の美沙子は不登校中だからな。時期が悪い。それはお前も理解できるだろう? だから今日のところは、わたしからのご褒美で我慢しろ」


 そう言って、紅ちゃんは克己くんのマフラーをグイッと引き寄せ、彼の頬に唇で触れた。


「うわっ!? 好きでもない人間に、こんなことしちゃ駄目だよ! 僕は嬉し……いやいや違……わないけど! でも、でも……──紅ちゃんは……紅ちゃんは! まったくわかってないよ!」


 克己くんはこの短時間に、驚いたり、照れたり、喜んだり、怒ったりと、感情の振り幅がものすごい。

 もともと感性豊かな人物なのだろう。そこに紅ちゃんの言動が加わり、彼のすべての情動は休むことなく翻弄されまくっているようだ。


 当の紅ちゃんと言えば、彼の様子を気にもとめず、何か考え事をはじめたらしい。


「紅ちゃん? どうしたの?」


 克己くんが不思議そうに紅ちゃんの顔をのぞき込んだ瞬間、突然口角を上げた彼女は輝くばかりの笑顔を見せた。

 この雪景色が突然色づいたように華やいで見えるその笑顔は、同性であるわたしから見ても相当魅力的だ。


「それならばまったく問題ない。わたしはお前のこと、ちゃんと好きみたいだ。わたしだって気に入った人間にしか、こんなことはしない。だから、大丈夫! 安心してくれ。わたしは克己くんのこと、大好きだ!」


 ニコニコと屈託なく告げる紅ちゃんとは打って変わって、克己くんは何とも言えない表情でコートの胸元をギュッと掴んでいる。


「大丈夫じゃないよ……僕の心が。紅ちゃんの言う『好き』は、僕の『好き』とは種類が違うってことも知ってるから……ぬか喜びすらできない」


 克己くんの溜め息が、空気中に、白く広がった。



 天然だ。

 紅ちゃんは、天然だった。


 いや、天然ではなく、すべてが計算の上だったとしたら、紅ちゃんは恋愛における相当の手練てだれ


 でも、おそらく紅ちゃんは前者だろう。鈍いのは間違いないのだが、意図せずして男心をくすぐる方法も心得ているのかもしれない。将来が末恐ろしい美少女である。




 克己くんは、紛れもなく紅ちゃんにホの字だ。

 傍目からもよくわかる。


 彼の言動からも、その気持ちは周囲にもダダ漏れ状態。だが、想いが通じてほしい肝心の紅ちゃんにだけは伝わっていないのが、なんとも悲しい。


 しかも、紅ちゃんの中では「克己くんは美沙ちゃんにご執心」という刷り込みがされているようなのだ。


 紅ちゃんよ。

 いくら何でも鈍感が過ぎるぞ。


 百歩譲って、当人だからこそ気づかないということもあるのかもしれない。が、それにしても克己くんがあまりにも不憫だ。


 切ないぞ。克己くん。

 頑張れ。克己くん!


 紅ちゃんに弄ばれているようにも見える姿に仏心が起き、克己くんを心底応援したくなった。

 そのくらい、彼の姿が可哀想に映ったのだ。



 ──あれ?

 克己くんて──どこかで聞いたことのある名前だぞ?



 そうだ!

 晴夏の父親──『TSUKASA』の現社長であり紅子の夫でもある鷹司氏も同じ名前だったはず。


 紅子は夫である鷹司氏のことを「克己くん」と呼んでいた。

 克己くんは理香からのアプローチを受け、彼女から不意打ちで唇を奪われてしまった際、涙ながらに「紅ちゃん、ごめん」と謝罪の言葉を口にしたと『天球』で紅子が話していた記憶もある。


 子供が生まれると「パパ」「ママ」や「お父さん」「お母さん」という役割名で呼び合う夫婦が多いような印象があったので、鷹司夫妻が「克己くん」「紅ちゃん」と呼び合っていたことがものすごく新鮮だった。それ故に、わたしはその時紅子が語った言葉をしっかりと覚えていたのだ。


 と、いうことはこの美少女は、やはり中学生時代の紅子なのだろう。

 で、美沙というのは、やはり美沙子ママを指している……よね?


 わたしはその瞬間、とある重大な可能性に気づき、青い傘をさす幼い少年を慌てて視界に入れた。



 ──タックン。

 紅ちゃんは、タックンと呼んでいたよね?


 名前に「タ」がつき、紅子を警戒するような男の子といえば、わたしの中で思い当たる人物は一人しかいない。


 ま……まさか、このタックン。

 貴志の幼年期の貴重な姿ではないだろうか!


 見覚えがあると感じたのは、幼くても現在の貴志の面差しと似ているから?


 そのことに気づいた瞬間、わたしが寝入る直前に枕辺で貴志が語っていた内容がよみがえり、現在のこの状況がその話と酷似していることにも気づく。


 わたしは今、貴志が教えてくれた内容を、夢で見ているの?


 断定はできない。けれど、今はそんなことよりも、タックンを──チビ貴志の顔をじっくりと観察したい。

 たとえ、それが自分の願望の見せる想像の顔だったとしても、だ。


 己の欲求からくる衝動に駆られ「タックンよ。こっちを見てくれ! ここに未来のお前の花嫁がいるのだぞ」と念を送る。


 嫁ではなく期間限定の訳あり婚約者なのだが、予想では、此処は自分の夢の中。よって、事実を多少盛ったところで何の問題はない。つまり単なる自己満足なのだが、そんな気分を味わいたかったのだ。

 だけど貴志本人には、絶対に内緒だ。知られたら、恥ずかし過ぎて、わたしの心が死ぬ。



 わたしの強い願いが通じたのか、突然こちらを振り返ったタックンのつぶらなお目目とパチリ──視線が交わった──ような気がした。




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