第328話 【真珠】疑問符が踊る


「……泣いたら、貴志が困るでしょう? それとも……困らせて欲しいの?」


 貴志の呼吸が、一瞬だけ止まった。

 眠っているものと思っていたわたしが、突然不満を口にしたので驚いたのだろう。

 もしかしたら、他にも要因があったのかもしれないが、わたしには分からなかった。



 考えるような素振りを見せた彼は、ベッドの上に広がるわたしの髪を一房すくい、指に絡める。



「そうだな……その通りなのかもしれない。お前に指摘されて……気づいた。俺は、お前に……困らせて欲しかったんだ」



 意外な返答だった。

 わたしの腕からクッションが転がり落ち、貴志がそれを片手で拾う。


「ひとりで決めておいて何を身勝手な、とお前は怒るかもしれないが……形だけとはいえ、引き止めて欲しかったのかもしれない──」



 貴志が吐露する言葉は、いつもと違って歯切れが悪い。


 自分の揺れ動く不可解な気持ちに、思考が置き去りになっている状態──とでも言うのだろうか。



「だが──そんな身勝手な俺を気遣って……お前は『頑張れ』と……泣きそうな目をして笑うんだ。普段のお前を見ていれば、本音を隠していることくらい、分かる──」



 貴志は口角を上げてみせるが、どこか苦しげで、自嘲の笑みを洩らしているように見えた。



「お前と出会ってから、自分の気持ちの処理すら追いつかない。本来なら、応援されて嬉しいはずなのに、複雑な気持ちになった。だがその理由さえ分からず、お前に言われて気づくとは──こんな想い……今まで経験したことがない」



 自分の中に生まれた支離滅裂な心境に、ひどく戸惑っているようだった。


 そんな中であっても、貴志は自らの感情を言葉にすることで整理し、わたしにその心の動きを伝えてくれる。



「参ったな……誰かを大切に想うと、自分の心も不自由になるということか? でも、それも悪くないと感じるのだから……余計に──タチが悪い」


 ベッドに肘をつき、床に座り込んでいた貴志は、「もう降参だ」と言わんばかりに前に突っ伏した。



「お前が言うように、俺は……拗ねていたのかもしれない。自分でもよく分からずに、あんな態度をとってしまったんだ。本当にすまない……」


 顔を上げた貴志は、観念したように謝罪の言葉を呟いた。


 貴志の耳たぶが、再び赤く染まっていく。


 わたしが図星をさした言葉は、「拗ねているの?」の部分だったのか。



 拗ねている──あの、貴志が。


 渡米計画の説明を受けたわたしが、引き止めもせずに後押ししたことが寂しかったのだと──彼は、そう言っているのだ。


 離れるのは寂しい。が、応援したいわたし。

 支持は嬉しい。けれど、寂しく感じた彼。


 表層から見えた感情の裏に、相反する気持ちが潜んでいる──人間の心の、なんと複雑なことか。


 でも、こうやって、お互いの心境を素直に話せるようになったのは、以前よりも二人の心の距離が近づいている証拠なのだと思う。


 貴志の心模様に触れ、わたしの口からフフッと笑い声が飛び出した。


 嬉しかったのだ。

 彼も同じように、わたしと離れ難いと思っていたことが。



「貴志……もしかして今、わたしに甘えてる? なんだかくすぐったくて……、どうしよう……ちょっと──嬉しい」



 わたしは起き上がり、貴志に向かって手を伸ばす。

 小さな手で彼の頬に触れ、その両目をのぞき込んだ。



 貴志はバツが悪いのだろう。

 すぐに視線を逸らしてしまったけれど、大きな掌がわたしの手を包んでくれた。


 重ねた互いの手から温かさが伝わり、愛情が満ちていく。



 微笑むわたしとは対照的で、貴志は肩で溜め息をついている。


「まったく……何をやっているんだ、俺は。……まるで子供だ──最近、お前に情けないところばかり見せているようで、かなり自己嫌悪だ──」


 今夜、彼が見せた不可解な態度に戸惑いはしたけれど、それを紐解いた先には『貴志の本音』があった。


「わたしのほうこそ、我慢しちゃって……ごめんなさい。でも、貴志のことを頼りなく思って、自分の気持ちを隠したわけじゃないの。わたしは──笑顔で見送りたいだけ。泣き顔よりも、笑った顔を覚えていて欲しいから──言いづらい本音を話してくれて、ありがとう」



 だから、わたしも貴志の心に応え、本心を伝えよう。


 でもちょっとだけ、強がりも混ぜていいかな?



「あのね。本当は、泣いて泣いて、それでどうにかなるなら『行かないで』って縋っていたよ。でも、それが叶わないことも知ってる。だったら、わたしは泣くんじゃなくて、貴志と同じ未来に向かって、真っ直ぐ進みたい」



 貴志が思い描く未来──いつか来るその時に、隣で笑っていたいから。



「お前は、本当に──」


 貴志の口元が、微かに震えた。

 彼の心が、何かを我慢しているように映ったのは……錯覚、だろうか?


 いや──強がるわたしの代わりに、彼の心が涙を流してくれたような気がする。



  貴志は──とても優しい人だから。



 再び顔を背けた彼は、口元に手を当てると、黙ってしまう。


 相当、心が揺れているだろう状況が、その態度からも伝わった。


 わたしはそんな貴志を優しく抱き締め、まわした腕で彼の背中をトントンと叩く。

 規則正しく刻まれるリズムが、二人の間にあった壁を溶かしていくようで、とても穏やかな気持ちだ。



「貴志、ありがとう。今夜はわたしに、たくさん甘えていいよ。二人で色々な話をしながら……一緒に寝よう?」


 

 愛に溢れた気持ちを隠しもせず、貴志の心に向かってそう囁く。


 彼の了承の言葉を心待ちにするわたし。

 不可思議な光に揺れる貴志の瞳。


 お互いを見つめながら、二人で微笑み合った。



 夜は、まだ始まったばかり。

 二人の時間は、これからだ。



          …




 ……………………あれ?

 ちょっと待って。


 わたし、何かを忘れている……?

 何だっけ?



 貴志の瞳を見つめた瞬間、心の中を何かが過ぎった。


 昼間、彼に何か言われたっけ?

 でも、肝心の内容が思い出せない。


 思い出せないと言うことは、些細なこと?

 きっとそうだと言い聞かせ、頭の隅に追い払う。


 ん?

 それにしても、貴志はどうしたのだろう。


 いつもならば、ここでわたしを抱き上げてくれる場面なのに──待てど暮らせど、彼の腕が伸びてくる気配がない。



 しかも、既に別のことを、考え始めている模様。


 わたしが首をコテリと倒した途端、貴志が口を開いた。



「ああ──そうだな……話しよう。だが、今夜は別々に寝るつもりだ」



 へ!?


「今、なんと?」


 貴志の言葉を理解するのに数秒要し、理解したあとは聞き間違いの可能性を賭け、小指で耳をほじる。


「聞こえなかったのか? 今夜は別々に寝る、と言ったんだ」


 愛しい人のつれない声に引導を渡されたわたしは、暫し茫然自失状態。


 おそらくこの表情は、氷のように固まっているはずだ。


 いや、だって、まさか、お断りされる状況など、誰が想像できようか!


 子供のくせに、『二人の時間は、これから』──などと、ほんのちょびっとではあるが破廉恥妄想を抱いたわたしに、神罰がくだったのだろうか。




 貴志はわたしの乙女心など露知らず、立ち上がるとひとりで居間に向かって歩いていく。


 ぬぉ!?──抱っこすら、してくれない。


 こちらを振り返った貴志が、わたしを手招きする。


「お前に訊きたいことがあったんだ。とりあえず居間で、何か飲みながら話そうか──喉が渇いた」


 え?

 ナニコレ??

 一体、どういうこと???


 何が起きているのかよく分からないが、これだけは言える──今現在、わたしの脳内にて、たくさんの疑問符がダンス中だ。



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