第327話 【真珠】「困るでしょう?」
「わたし、何か気に触るようなこと……しちゃった?」
確かめるようにして、貴志の目を覗き込む。
その感情の動きを見逃すまいと両手で彼の顔を固定したけれど、慌てて後退した貴志は手の甲を口元に当て、そのまま視線を逸らしてしまう。
わたしは知っている。これは、動揺した時に貴志が見せる仕草だ。
本当にどうしたのだろう。
「貴志?」
不思議に思ってその名を呼んだけれど返答はなく、彼はベッドから立ち上がるとこちらに背を向けてしまう。
言い方が悪かったのかもしれないと焦り始めた頃、軽い溜め息をついた貴志が、力なく言葉を紡いだ。
「……お前は何もしていない。少し、頭を冷やしてくる。話はそのあとだ……」
──頭を冷やす?
貴志を見上げ、首を傾げた途端、伸びてきた指によってわたしは鼻先を摘まれた。
「真珠、ひとつだけ……俺は、そんなに──頼りないか?」
貴志が最後にこぼした科白の意図が分からず、首を倒したまま何も答えることができない。
困惑したわたしの様子に、貴志は苦笑いを浮かべた。
「すまない。何でもないんだ」
そう呟くと、貴志はわたしの頭を軽く撫で、寝室から出て行った。
足音が遠のき、しばらくしてから耳に届いたのはシャワーの音。
その微かに響く水音を聞きながら、貴志が呟くように出した言葉の意味を考える。
──頼りない? 貴志が?
いや、頼りないと思ったことは一度もない。
むしろ、自分の今後をより良いものにしようと、未来に挑む姿は頼もしいとさえ感じている。
正直に言えば、その人生を賭けた貴志の選択は、わたしにかなりの衝撃を与えた。
けれど、客観的に見ると、彼の進もうとしている道は至極真っ当──最善の選択だと言うこともわかる。
ベッドに並べられたクッションの山に、わたしはポフリと身を倒した。
置かれたクッションのひとつを引き寄せて抱きしめ、先ほど彼が見せた様子を瞼の裏に思い描く。
貴志は何を思って、あんな言葉を口にしたのだろう?
結局──考えても、考えても、その答えは見つからなかった。
貴志の声が室内に響く。
いつの間に身支度を終えたのだろう。目を閉じて、彼の放った言葉の意味をひたすら考えていたわたしは、声をかけられるまで全く気づかなかった。
「真珠? もう……寝たのか……」
貴志の声は、寝室の入り口から聞こえた。
その声音に宿る感情は、寂しさと──少しの安堵。
横になって考え事をしていたので、彼の目にはわたしが眠っているように見えたのだろう。
誤解をとかなければと思い、閉じていた目を開けて起きあがろうとしたところ──何かが頬に触れた。
間近に彼の気配を感じる。
皮膚から伝わるこの心地良い温度は、貴志の掌だ。
滅多に私に触れようとしない彼が見せた行動に驚き、「起きていた」と言い出しづらい状況に陥る。
わたしは、罪悪感を覚えながらも寝たふりを続けた。
「真珠、お前はまたそうやって……笑うんだな」
その言葉に、心臓がドキリと跳ね上がる。
渡米計画を説明してもらっている間、上手に隠せたと思っていた気持ち──その本音は、貴志に筒抜けだったのだろう。
笑う理由は──貴志に心配をかけたくないから。
そこには、後顧の憂いなく旅立って欲しいという願いも多分に含まれる。
けれど、本心は──麻痺していると思っていた心は、実際には静かに涙を流していたのかもしれない。
貴志は、それをいち早く察知してくれたのだろう。
ずっと一緒にいたい。
片時も、離れたくない。
行かないでと言ったら、傍にいてくれるのだろうか?
連れて行って欲しいと伝えたら、わたしも連れて行ってもらえるの?
答えは、否──だ。
そんなこと、分かりきっている。
今のわたしは幼い子供。一人では何もできない、足手まといにしかならない、ただの子供だ。
貴志を追いかけていくことすら望めない。
笑顔で送り出したかった。
だから、必死になって笑顔を作った。
貴志の言葉からも、わたしの抱える苦しい気持ちを、彼が理解していたことが伝わる。
それなのに、何故?
わたしが笑顔を見せた理由も、貴志は分かってくれた筈なのに……。
彼の先ほどの言葉が、再び耳奥でよみがえる。
『……俺は、そんなに──頼りないか?』
『お前はまたそうやって……笑うんだな』
──どうして、そんなことを言ったの?
彼が何を考えているのか、余計に分からなくなった。
瞳を開けると、貴志がわたしを見下ろしていた。
わたしは責めるような口調で、貴志に問う。
「……泣いたら、貴志が困るでしょう? それとも……困らせて欲しいの?」
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