第326話 【真珠】仕上げ磨きとフロスの時間


 渡米計画のあらましを聞き終えたあと、わたしはお風呂へ向かった。


 貴志から手渡された歯磨きセットを手に、洗面台の鏡で口内を確認しながら入念にブラッシングをこなす。

 フロスだって完璧だ。


 歯磨きのあとは、しっかり身体中を洗い、汗も流した。

 全身スッキリ爽快だ。


 貴志との会話中、ずっと緊張していた気持ちをほぐすため、目指す場所は湯船。

 湯加減を確認後、足の爪先からゆっくりと浸かり、身体を肩まで沈める。




 貴志が教えてくれた進学計画は、相当練られたものだった。


 もともと欧州の大学を卒業している貴志は学位を持っている。

 そのまま大学院に進み、今までとは異なる経済分野に鞍替えしつつ学ぶ手もあったが、大学で事前に学んでおきたい科目もあるらしく、専門分野の始まる三年次編入を考えているようだ。

 一般教養科目は今まで取得したものを単位認定してもらえるとのこと。


 貴志が検討しているのはリベラルアーツ・カレッジ(※注1)への進学だった。

 リベラルアーツの旨味は、面倒見の良さと、教授陣との距離の近さ。総合大学のような大規模校の講義は一人の教授に対して学生は数十人もしくは数百人で行われるが、小規模校の場合、運が良ければマンツーマンで学べることもある。


 一般に、広く浅くを学ぶのが学部生、専門分野を狭く深く学ぶのが院生なのだが、少人数制クラスであれば学部生であっても、より深く、中身の濃い授業を受けることが可能だ。

 導入として学部教育に重きを置くリベラルアーツを目指すのは良い手だと、貴志の選択には舌を巻いた。


 学位を得たあとの大学院は、経営学の最高峰を目指すとのこと。その大学は音楽大学やコンサバトリーとの提携もあるため、双方を学ぶのに申し分ない。


 名も実も、一挙両得で手に入れられる堅実なプランだ。


 但し、かなりの努力と知力、財力、それから体力および精神力が不可欠──だが、貴志ならどれも問題ないだろう。


 高額な学費も奨学金無しでも払えるだろう。コモンアプリケーションの段階で奨学金不要を選択すれば選考も通過しやすいので、おそらく年内──クリスマス前には、進学先候補が出揃う筈だ。


 貴志は、できるだけ早期の単位取得を目指し、更には音楽活動も継続するため、夏季休暇にも授業を組み込むと言っていた。


 わたしに会えるのは年に一度──年末のクリスマス休暇のみ。それを伝えた時の貴志は、少しだけ寂しそうだった。


 十二月を休息の期間に選択したのは、わたしとのペンダントの約束があるから……なのかもしれない。

 毎年、わたしの誕生日に合わせて『証』のチェーンを新調しようと言ってくれたのは、数日前のこと。


 十二月生まれのわたしにとって、貴志と会えることが何よりも嬉しい誕生日プレゼントとなる数年間を、この先送ることになるのだろう。



 ──きっと大丈夫。

 貴志は、自分の望みを形にして帰ってくる。



 今は会えなくなる期間を憂鬱に感じるよりも、貴志の成功を祈り、共に笑いあえる時間の訪れを心待ちにしたい。



 そうやって、楽しいことだけを考えていなければ、多分──独りで……立っていられない。



 思わず洩れてしまった本音に、ハッと息を呑む。


 ──駄目だ。

 こんな弱気な考えでは。


 湿っぽくなりそうだった気持ちを切り替えるために頬を叩くと、勢いよく湯船から上がる。


 わたしは貴志からもらった白いドレス調の寝巻きを身につけ、頭をタオルで乾かしながら居間へと続く扉を開けた。




 開け放たれた寝室のドアから、光が線状に溢れている。貴志は、そこにいるのだろう。


 居間の電気はずっと落としたままだが、人が通ると自動点灯する電気があるので不自由なく歩ける。

 便利な時代になったものだと思う反面、先ほど突然反応した照明にて、貴志の演奏を邪魔してしまったことも思い出す。


 もし、次回があったら、演奏が終わるまでは動かないでおこう。



「お先にありがとう。貴志も入ってきたら?」


 ベッドサイドのコーヒーテーブルの上には、冷たい水が置かれていた。

 風呂上がりの喉を潤すために、彼が準備してくれたようだ。


 ベッドに腰掛けたわたしは、その水に口をつける。

 一口飲んでホゥッと息ついたところで、貴志がドライヤーと小さな歯ブラシを手に近づいてきた。


「お前が風呂に入っている間に、母さんから連絡が入った。仕上げ磨きとフロスを必ず俺がしろということだ」


「へ!? もう綺麗にしたから、両方共しなくても大丈夫だよ?」


 自宅では自分で磨いたあとに、祖母がチェックを兼ねて仕上げ磨きをしてくれるのが毎日の日課だ。が、それは祖母の認識が「真珠は、まだ子供」となっているから。


「そう言うだろうと思ったんだが、何度も念押しされたからな。先に髪を乾かして、その後一応確認させてもらうぞ」


 その科白と同時に、ドライヤーの風が勢いよく髪に当たる。

 手櫛で頭をワシャワシャとかき回される感覚が、不思議と心地良い。


「分かった。それにしても、お祖母さまはいつまで、この仕上げ磨きをするんだろう? 穂高兄さまも、二日に一度、歯磨きチェックが入っているんだけど、貴志はいつ頃までしてもらっていたの?」


 わたしの問いに貴志が答えるのだが、その声はどこか上の空だ。


「ん……ああ、確か……小学校の三年生位までだったかな……」


 そんな他愛の無い会話をしている間に髪が乾き、今度は仰向けになって彼の膝に頭を預ける。


 磨き残しがないか確認をしてもらいながら、見上げた貴志の瞳は何故か複雑そうだ。


 今日一日の疲れが出ているのだろうか。

 どうしたのだろうと首を傾げつつも、話題を『仕上げ磨き』に戻す。


「ねえ、貴志。『紅葉』では、『歯磨きもフロスも自分でする』ってわたしが言った時に、貴志は納得して、それ以上は何もしなかったよね。今日に限って、どうして確認しようって思ったの?」


 いくら祖母から念を押されたからと言って、必要のないことに手を出す理由が思い当たらなかったので、質問してみたのだ。


 だが、どうしたことか、貴志はあまり多くを語ってくれない。


「さあ、どうしてだろうな? 俺も、よく分からない」


 歯ブラシが口の中をちょこちょこと動きまわり、それ以降は喋ることができなかった。

 貴志も無言になって作業に没頭し、最終的にはフロスがけまでしてくれた。


 以前ポニーテールを結ってもらった時のように、熱中しすぎて無口になっているのかと思っていたけれど、どうやらそういう訳でもなさそうだ。


 彼の様子は、やはり微妙におかしい。

 一体どうしてしまったのだろう?


「貴志? なんだかいつもと様子が違うよ? 新種の機嫌の悪さなの? それとも、昼間のわたしの態度を思い出して怒っている? そうじゃないなら、やっぱり──拗ねているのかな?」


 雰囲気を悪化させないように気をつけながら、最後に軽口を添える。


 今の貴志の態度は、不機嫌を纏ったいつもの様子と、少しだけ異なるのだ。

 それは誤差とも呼べる、僅かな違い。


 わたしの言葉が終わるや否や、貴志の耳たぶが、ほんのり赤く色づいた。

 表情は相変わらずのポーカーフェイスだけれど、図星をさされて慌てている?


 でも、今の質問のどの部分に反応したのか、わたしには見当がつかない。


 貴志の表情を見極めたくて、手を伸ばす。

 小さな掌で彼の頬を包み、その瞳を覗き込んだ。






【後書き】

(※注1)

 リベラルアーツ・カレッジは、日本での知名度は低いかもしれませんが米国内での評価は高く、ミニ・アイビーと呼ばれる大学が多数あります。


また、単位認定や編入については各大学の裁量もあるので、進学や編入を希望されている方は大学のWEBサイトを確認し、直接メール等で問い合わせをしてください(*´ェ`*)

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