第325話 【真珠】貴志の選ぶ道


 滞在するスイートルームに戻ったわたしは、扉を閉めたばかりの貴志に向かって唐突に話しかけた。


「貴志……わたしに話しておかないといけないことが、あるんじゃない?」


 腕組みをして、体を斜に構え、壁によりかかりながら彼を見上げる。悪い態度だと、自覚はしている。


 この件がなければ、もう少しだけエルとラシードとの別れの感傷に浸りたかった。

 そして、明日に備えて就寝したかった。貴志と一緒のベッドで。


 だが、早急に確認しなくてはいけない事案が、先ほど発生してしまったのだ。


 明朝は早起きしなくてはいけないのに、今詳細を話してもらわなければ、気になって眠れない。


 その上、万が一にも貴志の口から何も語ってもらえないなんて事になったら、わたしは間違いなく泣く。それも駄々っ子のように地団駄を踏み、泣き喚く自信がある。

 因みにこれは、幼い『真珠』の心が実行しようとしていることで、今回ばかりは止められそうもない。


 ──『真珠』も、貴志が大好きだ。


 かなり本気で、彼のお嫁さんになりたいと思っている。

 求めていた愛情を最初に注いでくれたのは、両親ではなく貴志だったのだから、この心の動きには納得だ。


 だから『真珠』も、先ほど貴志がエルと語った内容が気になって仕方がないのだ。

 そして幼い心は、癇癪を起こす寸前──今わたしは必死になって、自分に『待て!』をさせている状況だったりもする。


「本来ならば今日、月ヶ瀬の家で話すつもりだった。お前は科博に行くのを楽しみにしていたし、その前に水をさす必要もないと判断して、今まで伝えずにきた。だが──」


 そこで言葉を止めた貴志は、わたしを視界に入れると溜め息を落とし、再び口を開く。


「──月ヶ瀬では、その時間が取れなかっただろう? お前の機嫌が直った後は、美沙から急遽ホテルに行くように頼まれて今に至る。ついでに言うなら、エルとラシードに会う直前に話す内容でもなかった」


 ──そうだった。

 今日のわたしは貴志を避けまくり、何度も寝落ちをしたせいで、彼と殆ど言葉を交わしていない。


「じゃあ、エルと話していた内容は、わたしの聞き間違いじゃあ……ないんだね」


 貴志は、迷いを見せることなく頷いた。


 貴志の瞳が、尊のそれと重なる。

 日本の大学院への留学を正式に決めた──そう伊佐子に告げたとき、弟が見せた眼差しと、貴志の双眸に宿る光は酷似しているのだ。


「この夏、お前と出会ったことで俺の人生の選択が大きく変わった。恥ずべきことだが、月ヶ瀬から逃げていた俺は、企業経営についての知識がない。自分なりに学んだ気になっていたが、独学では足りないことは承知している。かと言って、音楽を手放すこともできない。ふたつの専門分野を同時に学ぶには、今の日本の大学院では現状難しい──」


「……だから、アメリカに?」


 わたしの責めるような口調に臆することなく、貴志は頷いた。


「──そうだ」


 貴志の心は既に決まっているようだ。


 彼は真っ直ぐに前を──未来を見据えている。


 今後のことを念頭に置き、今の自分に足りない物を補おうと模索した結果、貴志はその道を選んだのだろう。


 彼の実の父である月ヶ瀬正幸が歩んだ道を、その息子である貴志が進もうとしている。


 ふと、祖父の顔が脳裏を過ぎった。


 昔の貴志ならいざ知らず、今の彼は祖父に無断で大きな決断を下すことはない。

 おそらく祖父も合意の上での進路選択なのだろう。


 貴志の希望と、祖父の思惑が絡み合い、裏では月ヶ瀬のコネクションも動いていることが予想された。


 おそらく、貴志が学業を修めた後、祖父は彼に月ヶ瀬の海外支社で、下積みを命じるのだろう。

 それは将来的に、貴志を鳴り物入りで本社の重要ポストに就かせるため──祖父が貴志のために敷いた、月ヶ瀬復帰計画の一端だと思われる。


 既に始動しているのだ──大人たちの、年月をかけた目論見は。



 わたしは軽く息を吐いてから、寝室へ向かう。

 貴志はわたしの背中を無言で見送っているようだ。


 拗ねている訳ではないとの意思表示をするために、寝室から玄関口を振り返り、こちらに来て欲しいと貴志を手招きする。


 わたしが向かった先は、ベッドの横に設置されたコーヒーテーブル。

 その台に置かれた卓上カレンダーを手にして日付を確認する。


「真珠?」


 寝室にやってきた貴志は、わたしのこの行動を訝しんでいるようだ。


 カレンダーをめくりながら、わたしは貴志に質問をする。


「希望大学側には、コンタクトを始めている?」


「ああ、何校か問い合わせをして、来週は専攻の教授とのミーティングも組んでいる──俺の状況は、かなり特殊だからな」


 それを聞いて、わたしはひとまず安心する。


 アメリカの大学選考は夏以降に開始され、アドミッションオフィスのカウンセラーと遣り取りをし、問い合わせ履歴を残しておくのも重要なプロセスのひとつだ。

 貴志は既にそれを行い、教授とのミーティングも取り付けている。


 伊佐子が高校のシニアだった頃の記憶を頼りに、カレンダーを眺めた。


「うん……よし、間に合う」



 今週末に、貴志は日本への一時帰国を終え、欧州へ戻ることになっている。

 今までの予定では、来春から指導教授について日本の大学院に進むことが決まっていたのだが、その計画に狂いが生じた──それは、わたしと出会い、彼の運命が変わってしまったから。



 貴志と離れて過ごす時間は数ヶ月間だと思っていたけれど、今日のこの話を聞き、数年に渡って頻繁に会えなくなる事実が分かった。


 衝撃を受けていないと言ったら嘘になる。


 落ち着いて会話をしているように見えるかもしれないが、この心は相当動揺しているし、気持ちも麻痺状態だ。

 正直言って、自分のこの心の有り様を、どう表現したらいいのか、まだよく分かっていない。


 最適解を導き出さねばならない時に、動揺してはいけない。非常時こそ、取り乱すのではなく、冷静な分析をした上での状況判断が必要──それは、伊佐子が培った平常心を保つための対処方法。それが今、働いている。



 ──離れるのは、つらい。


 けれど、貴志が──大切な人が、本気になって未来を拓こうとしている。



 だから──



「行かないで、なんて言って困らせないから安心して。協力するよ。わたしができる事を」


 気づくとわたしは、そんな科白を、口にしていた。



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