第324話 【真珠】「良い旅を」


 今すぐ、貴志にたずねたい。

 エルと話していた内容は本当なのか?──と。


 けれどそれは、この場の雰囲気を壊すことになりかねない質問だ。


 わたしは深呼吸を繰り返して動揺を仕舞い込むと、ラシードの手を取り、エルと貴志の近くに移動した。


 ──この場で、貴志を問い詰めるのは、どうあっても相応しくない。


 エルとラシードに別れの挨拶と、明日の帰国に際して「旅の無事を祈る」と伝えるのが先決だ。


 まずは笑顔で、エルに話しかけよう。

 それが彼の望みだったのだから。


「エル! いつの間に来ていたの? 気づかなかったよ。これ、お土産。皆でお揃いなんだよ」


 恐竜のキーホルダーの入った包みを取り出し、満面の笑みを添えて、エルに手渡した。



          …



 エルとラシードに見送られながら、ホテルの廊下へ続く玄関扉まで歩く。


 ラシードはわたしとの別れをかなり渋り、手を繋いだまま離そうとしない。

 明日、アルサラームに帰国してしまえば、当分の間直接顔を会わせることはできない。それを理解しているが故の行動なのだろう。


 彼らとの別れは、わたしだって寂しい。


 ラシードと初めて出会った場所は、このホテルの廊下。

 曲がり角で激突し、そこで発生した『祝福』にまつわるイザコザにより、最悪の印象を与えた初対面。


 あの時は生きた心地がしなかったし、どうなることかとかなり不安に思っていた。


 けれど、その時間を乗り越え、彼と仲良くなれたことを素直に嬉しいと感じている自分が、今ここにいる。



「シード、次回真珠と会うまでに、立派な──『正しき心』を持つ王族になるのだろう? 名残惜しいだろうが、そろそろ手を離してやれ」


 エルから窘められた青い目の王子は、歯を食いしばると、何も言わずにわたしの手を離した。すぐに、俯いたその様子から、泣きそうになった顔を隠しているのかもしれない。


 情けない姿を晒したくないという思いと、可能な限り一緒にいたいという相反する気持ちが、ラシードから伝わる。


 わたしは最後にもう一度、ラシードの柔らかな黒髪を梳くように撫で、それを別れの挨拶に代えた。


 ラシードの横に並び立つエルを見上げると、黒曜石の瞳が穏やかな光を宿していた。


 出会った当初、エルの本性がわからずに怖さを感じていたなんて、まるで嘘のようだ。

 彼の言動に胸騒ぎを覚え、足を竦ませていたあの時間。それを懐かしく思う日が来るなんて、誰が想像できただろう。


 太陽神シェ・ラが本当に存在するならば、エルと巡り合わせてくれたことに対する、感謝の気持ちを伝えたい。



 エルはわたしの目線と高さを合わせるように跪くと、この手を取り、そこに額づいた。

 彼の手からあたたかな優しさが流れ込み、わたしは微笑みを返す。


「我が女神──貴女にはやはり笑顔が似合う。その輝きが褪せぬよう、私は静かに、その行く末を見守りましょう」


 その物言いは、真珠に向けてというより恩人である『天命の女神』に対しての挨拶のようだった。

 口上を捧げているのも、エルではなく『シエル』──そう受け止めたわたしは、静かに首肯する。


 『太陽と月の間』で、エルから直接指摘されたけれど、彼に対して抱くこの感情は、親に向ける信頼の情とよく似ている。


 『理の違う魂』という異質な存在であるわたしに、この世界で生きるため──身の守り方を教え、『聖水』まで授けてくれたのはエルだ。


 恩人である彼に対して、好意を持っているのは事実。けれど、それは恋情ではない。

 信用に足る人物だと信頼を寄せているのは確かだけれど、好意と恋情は似て非なるもの。


 彼の想いに応えることも、同じ気持ちを返すこともできない──エルもわたしの心を知るからこそ、最後の挨拶でわたしを『女神』として扱ったのだろう。



 わたしの成長を見守る『盾』になると誓ってくれたエルが、いつか本当の幸せを手にする未来が訪れるといいな──そう思うのは、彼に対して、失礼なことなのかもしれない。

 けれど、いつか、エルと同じ目線で生き、共に歩める女性と出会える未来が訪れることを、願わずにはいられない。


 根底にある望みは、エルの幸福──彼に、心からの幸せを掴んでほしい。



 『シエル』という、わたしだけが呼べる真名。

 将来、エルの心に『大切な誰か』が棲んだ時、その資格返上を願い出ようと思っていることは、まだ口にしていない。


 近い将来──エルはわたしのその願いを、少し困った顔をしつつも受け入れてくれるような気がする。

 そのとき彼の隣には、エルに見合った女性が並んでいる──それは、朧気おぼろげな予感。

 いや、単なるわたしの願望なのだろうか。



 エルと貴志が別れの言葉を交わす様子からは、あの初対面時の火花散る雰囲気は微塵も感じられなかった。

 彼らの尊重し合う態度から、お互いの存在をとても大切に思っている事実が伝わり、腹を割って話せる唯一無二の友を得ることができた様子がうかがえた。


 二人の会話の中で、今回の『祝福』騒動から始まった数々の儀式にまつわる問題が、アルサラームの教皇庁内で起きていることも知った。

 エルの沽券に関わる醜聞のようで、どうやらは彼は帰国後、その処理に追われることになるらしい。


 別れ際、エルがわたしの全身を隈なく見つめ、何故か深い溜め息をついた。


「『女神』が子供の姿だった故、とんでもない誤解が生まれ──独り歩きしているようだ。いや……今までの私の態度も良くなかったのかもしれない」


 憔悴した様子でボヤいたその声が、妙に印象的だった。




 玄関扉を開け、わたしは廊下へと足を踏み出す。


「よい旅を」


 貴志がエルに向かって伝えると、二人は別れの抱擁を交わす。



「貴志、お前も、よい旅を。今週末に欧州に戻ったら、……慌ただしくなるな。だが、健闘を祈る」



 わたしはエルの言葉を聞いたあと、貴志の顔を盗み見た。





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