第321話 【真珠】『三楽章』に潜む蝶
大きな嵌めガラスの窓には、不夜城の夜景。
天空には
夜景と月光とに照らされた貴志の輪郭が、室内に淡く浮かび上がる。
彼自身が
照明のない薄闇の中、仄かな光を頼りに、貴志はチェロを弾いていたようだ。
…
一音ずつ確かめるように紡がれる旋律は、
第三楽章──『
静かに流れる音色は、
この音色は、心の奥底に仕舞い込んでいた貴志の想いなのだろうか。
心の内を吐露するかのような演奏を邪魔しないよう、わたしは黙って聴き続けた。
陰鬱さを醸し出す音色が、物寂しい気持ちを呼び起こす。
今日一日のわたしの行動は、貴志をこんな気持ちにさせていたのかもしれない。
居た堪れなくなったわたしは寝室から居間に向かって、思わず足を踏み出してしまう。
ちょうど曲調が変わる瞬間──チェロの音色が小さくなっていたのもタイミングが悪かった。
わたしが一歩前に進むのにあわせて照明が自動点灯し、頭上でパッと輝いたのだ。
暗がりの中、唐突な眩しさが貴志の目を射したのだろう。
演奏していた彼は、その手を止めた。
折角、貴志が心をさらけ出す演奏をしていたというのに、わたしの行動が邪魔をしてしまったようだ。
中断させてしまった申し訳なさが、わたしの表情にあらわれる。
その心情を悟ってくれたのかもしれない──貴志は再び弓を構えると弦の上に置き、勢いよく滑らせた。
ガラリと変わった曲調が、勢いのあるリズムを刻む。
朗らかではあるが、どこか小悪魔的な要素を感じる旋律だ。
高みをめざして駆け上がる音の渦に、わたしは心ごと巻き込まれる。
なぜだろう。
『天球』の森で、追いかけっこをした記憶が思い浮かんだ。
それだけではない。
今日の『科博』で、貴志から必死に逃げ回った時間とも、その音色は重なった。
追いつ追われつの、駆け引きを思わせる旋律。
けれどそこに、
音色は折り重なり、いつしか大きな網へと変化した。
貴志は手にしたその網で、何を捕まえようとしているのだろう。
ヒラリ──舞い降りたのは、色とりどりの蝶。
花畑に、蝶が気まぐれに遊ぶ。
そんな景色が見えた気がした。
自由に飛び回る羽根は美しく、つい手を伸ばしたくなるが、触れることは許されない。
けれど、もしも触れることができたならば、天に向かって飛んでいけるような気がした。
チェロの音色は複雑に重なり合い、蝶を絡め取るべく包囲網を狭めていく。
貴志が張り巡らせた罠──だが、蝶は何食わぬ素振りでくぐり抜け、いとも簡単に
舞い踊る羽根は逃げもせず、彼の近くをフワリフワリと飛びまわる。
その蝶は、貴志の心を弄んでいるように見えた。
いや、それは願望に過ぎないのかもしれない。
──蝶がこちらを意識していると信じたいがため、心が望んだ幻だ。
舞い遊ぶ蝶は、貴志が幾重にも張った音色の網を──歯牙にも掛けていないのが真実だろう。
加速する旋律。
物語の終わりを予感させる調べ。
最終小節を、チェロは高らかに歌い上げる。
貴志は、その蝶を、
それとも、天高く舞い上がった蝶は、彼の元から逃げ去ったのか?
彼が紡いだ物語は、その結末を語ることなく──聴く者の心に委ねられた。
貴志が捕まえようとしていた蝶は、何を比喩していたのか?
──わたしには、何も……思い当たらなかった。
捕まえたと思っても、逃げてしまう蝶──ほんの一瞬だけ、羽衣を取り返した『天女』のように映ったのは、なぜだろう?
微かな息苦しさを覚えたわたしは、胸に手をあてる。
その指先に触れたのは『証』のペンダント。
先日目にした小さな石の輝きを心に思い描いた時──それは起こった。
いや、正確には
突如として──『奇妙な』という形容が相応しい音が、部屋の中に響き渡る。
──ウニョウニョウニョうにゅ〜ぅ
──グゥ……
──キュルキュルキュル……
演奏の余韻に浸っていた貴志は弾かれたように顔を上げ、こちらへ視線を向けた。
彼の耳に、その音が届いてしまったのは明白──貴志の視線は、その音の発生元を凝視している。
視線の先は、わたしのお腹。
何を隠そう、先程の轟音は、わたしの胃袋発──人間の三大欲求のひとつを訴えたものだった。
わたしのお腹の虫が、大音響で主張してしまったのだ。
──空腹を。
時計を見ると、普段ならば夕食が済んでいる時間帯だ。
わたしは腹部を押さえ、引きつった笑顔を見せる。
その様子を目にした貴志が苦笑した。
「今日は疲れたようだな。なかなか起きなかったから、弁当を準備してもらった。まずは腹ごしらえをして、その後、エルとラシードにキーホルダーを届けて、今夜は早目に休もう」
貴志は視線で弁当の在り処を伝えると、愛器を布で拭きはじめた。
彼の目線が指し示した先を辿る。
テーブルの上には立派な重箱が並べられ、お茶のペットボトルも添えられていた。
頷いてから照明をつけ、テーブルに移動する。
わたしが椅子に腰掛けると、チェロをケースに収めた貴志もやってきて、目の前に座った。
重箱の中は、焼き魚と根野菜の煮物、白和えや漬物が綺麗に盛り付けられていた。
白米はほんのりと温かく、すべてが弁当用に計算された味付けとなっていたため、とても美味だった。
お茶を飲みながら、気になっていたことを貴志に訊ねる。
「あのね、貴志──さっきの演奏、貴志の中では、最後に……
貴志が首を傾げた。
「蝶? 何のことだ?」
──蝶ではないのか。では……。
「違うの? じゃあ……『天女』?」
貴志は目を見開き、何故かその動きを止めた。
【後書き】
『
https://www.pixiv.net/artworks/88781480
■『チェロのための無伴奏組曲』参考■
Santiago Cañón Valencia 氏演奏
Gaspar Cassadó Suite for Cello Solo
https://youtu.be/ebMlp9Kc_bY
↑第三楽章は、9:55から。
貴志が演奏を変えたのは、12:00辺りからです(*´ェ`*)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます