第322話 【真珠】蝶と天女と「ありがとう」?


「あのね、貴志──さっきの演奏、貴志の中では、最後に……あの蝶は、どうなったの?」


 貴志が首を傾げた。


「蝶? 何のことだ?」


 ──蝶ではないのか。では……。



「違うの? じゃあ……『天女』?」



 貴志は目を見開き、その動きを止めた。



 ──何故、止まるのだ?


 怪訝に思ったわたしは、貴志の目をジッと見つめる。


 彼は考え込むような素振りを見せた。

 はっきりとした答えは未だ戻ってこないが、わたしに何と答えるべきなのかと、言葉を選んでいるようにも見えた。


 貴志が捕えようとしていたのは蝶、もしくは、天女ではないかと感じたけれど、違ったのだろうか。


 何かを思案している様子の貴志に対して、わたしは先程の演奏について感じた内容を訥々とつとつと語る。


「三楽章……楽しい音色のはずなのに、どこか寂しそうな感じもして……不思議だったの。あとね、ちょっとだけなんだけど、お小言を言われて……叱られているような気持ちにもなった」


 蝶を捕まえようとしてると思った貴志の演奏の裏で、そんな理解不能な感情も流れ込んできたのだ。


「どうして、わたしはそう思ったんだろう──って、ずっと気になっちゃって。あの蝶……じゃなくて、天女……も違うんだっけ? さっきの演奏で、わたしが『蝶』だと感じたものって何?」


 貴志がお小言を言うような人物には、まったく心当たりがない。


 強いて言うなれば──『加奈ちゃん嫁候補事件』で、はっちゃけたお祖父さま?


 その瞬間、蝶の顔の部分だけがお祖父さまにすげ代わって、パタパタと羽ばたいた。

 ……どう考えても、蝶とお祖父さまが結びつかない。


 貴志の演奏は、誰に聴かせるでもなく、ただ心のままに爪弾かれたものだったのかもしれない。


 演奏中に彼の心を過った感情のすべてが音色にあらわれただけであって、単に入り混じった心の塊を『複雑な想い』として、わたしが勝手に解釈してしまった可能性も否めない。


 自分の中でそう結論を出しかけたところ──貴志が動いた。


 彼は顎に当てていた手を離すとテーブルの上で指を組み、こちらを視界に入れた。

 彼が口にしたのは、少しばかりのヒント。


「そんなに気になるのか? お前の言う『蝶』は──俺にとって、相当手強い存在だ。自分以外のモノに、こんなにも振りまわされる未来がくるなんて……昔の俺には想像すらできなかった」


 貴志を振りまわす、相当手強い存在?

 ──それは、何らかの手練れということ?


 ますます訳がわからない。



 あの蝶は、貴志のことなど歯牙にも掛けていない素振りさえ見せていた。

 舞い踊る蝶から、貴志が袖にされているような気がして、ちょっとばかり面白くないとも感じていたのだ。



 それって、もしかして──紅子?

 紅蓮の炎を宿す美女が浮かぶが、それはなんだか違う気がして首を振る。

 加えて、貴志が紅子に振り回される状況は、今に始まった事ではない。


 だとしたら──久我山葵衣?

 でも、その選択も、何故かシックリこない。



 わたしが難しい表情を見せると、貴志は頬杖をついた。


 静かにこちらを眺めていた彼の眼差しにドキリとする。

 胸に手を当て、落ち着こうとするも上手くいかない。

 ちなみに、この『ドキリ』──色恋関連の胸の高鳴りとは別物だ。


 なんと言うか……自分が観察対象であるところの『蝶』になった気分で、ソワソワするのだ。



「お前は、その『蝶』を、俺が最後に──どうしたと思う?」


「へ? その結末は、演奏を聴く人に委ねたんだと思っていたんだけど……」


 わたしの言葉を受けた貴志は、気怠げな態度を見せた。


「そうだ。だから、その聴き手であったお前は、俺がどんな結末を選んだと思うのかと──それを訊いている」


 なるほど。そう言うことか。


「貴志は、その蝶自身に判断を任せたように感じたよ。蝶が飛び込んでくるなら受け止め、逃げるなら──」


 どうするのだろう?

 そう思った瞬間、思考が止まった。


 答えを探していると、貴志がわたしにその先を促す。


「──蝶が逃げるなら、俺はその蝶をどうすると思う? 無理矢理捕まえるか? 羽根をいで、地上にとどめるか?」


 貴志の物言いは、自嘲するような雰囲気を滲ませる。

 彼の考えがまるで理解できず、わたしは首を傾げるばかり。


「何を言っているの? 貴志はそんなことをする人じゃないのは、わたしが一番よく知ってるよ? ねえ、本当に、どうしちゃったの?」


 貴志の様子が微妙におかしい。

 全くもって謎だらけなのだが、わたしは自分の出した答えを彼に伝える。


「その蝶が逃げるなら、貴志は……黙って、見送る……ような、気がする」


 わたしの言葉に、貴志は意外そうな表情を見せた。


「真珠。それは買い被り過ぎだ。俺はそこまで出来た人間じゃない」


「そう? あながち間違っていないと思うんだけど──で? 本当のところは?」


 身をズイと前に乗りだし、わたしは貴志の答えを待つ。


 彼は、あの蝶をどうしたのか、その結末を知りたい。

 それが分かれば、貴志が演奏で語った内容に、ほんの少しだけ近づけるような気がしたのだ。


 この問答の始まりで、最初に質問したのはわたしだった。

 貴志は、こちらの問いには答えず、逆質問を続けている。


 ここまで文句も言わず、彼に回答していたわたしに対し、次は彼が誠意を見せる番だ。

 それが筋というものだろう。



 貴志は軽く溜め息をつくと立ち上がり、空になった重箱を片付けはじめる。

 答えを口にするのを避けたのかと一瞬思ったけれど、彼はテーブルを拭きつつ、ゆっくりと口を開いた。


「さあ……どうなるんだろうな? 俺にも、正直なところ……分からない」


 その答えに、わたしは頬をぷぅっと膨らませた。


「つまり、貴志は、元から自分の答えがなかったってこと? わたしは答えたのに? ちょっとズルい」


 貴志は困った様子で、苦笑する。


「すまない。あまり考えたくもない未来だったからな。その時が来てみないと、今の俺には何とも言えない……。真珠──お前が俺の立場なら、その蝶をどうする?──教えてほしい」


 わたし?

 わたしなら──


「蝶って貴志にとって大切な『何か』なんでしょう? 大切なモノなら、あの手この手を使って……油断させてでも、絶対に捕まえる。だって、どうしても譲れないモノなんでしょう?」


 わたしは得意げに胸を張り、「どうだ参ったか!」と言わんばかりの態度で貴志を見上げた。


 彼は『蝶』に喩えて話をしているが、貴志が指す『手強い存在』が、蝶でないことは理解している。

 それはきっと、彼がどうしても手に入れたいと願う『大切なモノ』なのだろう。


 だからわたしは、そう伝えた。いや、本当は、幼い『真珠』が答えたと言った方が正しい。



 『欲しいものは、絶対に欲しい!』



 貴志への回答は、『真珠』の強い願いが如実に現れたものでもあった。



 伊佐子だけの考えであれば、おそらく蝶の飛翔を静かに見守り、その行く末を祈る選択をしたような気がする。


 けれど、わたしは真珠だ。


 小さな頃から、手に入れたいと思ったものは、すべて手に入れてきた経験がある。

 それは、心から望んでいた『親からの愛』ではなかったけれど、物欲的な面では満たされていたのだ。


 だからこれは、『真珠』が貴志に対して伝えた本心だったのだと思う。



 わたしの答えを聞いた貴志は、呆気に取られたような顔を見せた。



「お前はいつもそうやって、何でもないことのように容易に飛び越えてくるんだな。なんというか……俺が今日一日悩んでいたのが、アホらしくなるほど拍子抜けする──あまりの単純明快さだ」



 ──ん!?


「今、わたしのこと……サラッと馬鹿にした? よね?」


「していない。さすがお子様だ、と感心しただけだ」


 貴志は間髪入れずに否定してきたが、やはり小馬鹿にされている感は拭えない。



 憤慨気味のわたしを宥めるためなのだろう。貴志はこちらに近寄ると、この身をフワリと抱き上げた。


 条件反射なのか、わたしは機嫌を損ねている最中だというのに、ウッカリ彼の首に腕を回してしまう。


 しまった!

 これでは、抱っこで誤魔化されてしまう本物の子供のようではないか!


 彼の腕の中、仏頂面になったわたしを知ってか知らずか、貴志の囁くような声が耳に届く。


「ありがとう──真珠。お前にはやはり、敵わない」



 夕食後からの、彼の言動の意味不明さは相変わらずで、未だ以て、貴志と交わしている話の内容の真髄すら理解できていない。


 でも、何だかよく分からない状況ではあるのだが、感謝をしてもらえたようなので、とりあえず──


「えーと……? どういたし……まして???」


 そう答えておくことにした。


 答えはしたが、相変わらず現在進行形にて、わたしの頭上にはクエスチョンマークが激しく点滅中だ。



 貴志が「分かっていないようだな」と言ってから、ハハッと声に出して笑った。



 こんなに楽しそうな声で笑うなんて、珍しい。

 明日は槍が降るのではないか?


 ──と思ってしまったわたしは、そこでピシリと固まった。



 今の、槍が降る云々の発言は、即刻取り下げだ!


 槍は降らないし、明日こそは平穏無事に過ごしたい。



 形ばかりの結納をして、美味しい料理に舌鼓をうつだけの一日になるはずなのだから。



 本日の朝──今日一日の忙しなさの予兆を感じた結果、散々な目に遭遇した記憶が走馬灯──縁起でもないとブルッと震える。


 明日は──いや、明日こそは、心的負担「ノーセンキュー」にて、のんびりマッタリ過ごすのだ。そのためには、悪い言葉は口にしないのが一番だ。



 わたしが押し黙っている間に、貴志は恐竜のキーホルダーの入った袋を手にしていた。


「真珠、そろそろエルとラシードのところに土産を届けよう」


 貴志に抱きあげられたまま、わたしはコクリと頷いた。


 笑顔で訪問する約束を、エルと交わしていたことも思い出す。


 エルとのあの会話のあとだ。

 正直言って、現世うつしよでの再会は少しばかり気まずく、気が重かった。


 

 でも──気持ちを切り替えよう。


 エルとラシードは、明朝このホテルを発ち、アルサラームへと帰国する。


 今後しばらくの間、彼らと気安く会うことはできない。

 だから、エルの望み通り、最後は笑顔で挨拶をしたい。


 わたしは貴志に抱えられながら、美形ロイヤル兄弟の待つ部屋へと向かった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る