第320話 【真珠】相克の『無伴奏組曲』


 貴志が爪弾く旋律には、聴き覚えがあった。


Cassadóカサドー……」


 わたしの呟きを拾ったエルが、言葉を繋ぐ。


「『無伴奏チェロ組曲』──か」


 エルはそう呟くと、静かに瞼を閉じた。


          …


 ガスパール=カサドー。

 スペイン出身の名チェリストであり作曲家。


 『チェロのための無伴奏組曲』は、カサドーを見出した恩師パブロ=カザルスに献呈された曲だ。


 スペイン調の旋律が印象的なこの組曲は、三楽章に渡って情熱の音色で奏でられる。

 その曲調は、時に激しく、時に軽やかに──哀愁と歓喜とが相克しあい、聴く者の心を虜にする。


 無伴奏チェロ組曲というと、まず最初にバッハを思い浮かべる人も多いと思われる。が、そのバッハの組曲の価値を見出し、世に広めたのがカサドーの恩師──二十世紀を代表するチェリストのカザルスである。


          …



 貴志が弾いているのは、第一楽章『PreludioプレリューディオFantasiaファンタジア



 フォルテから始まる深みのある初音。

 その余韻に浸る間もなく、緊張感を保った音色が高音域へと登りつめる。


 貴志の織りなす世界の幕開けは、この場の空気を震わせた。



 立ち去る素振りを見せていたエルも、今はその圧巻の音色に耳を傾けている。



 愁いを帯びた旋律。

 気怠げな音の連なり。


 妖しくも美しい調べが生み出される。



 一瞬にして、その組曲の世界にいざなわれ、心ごと飲み込まれる感覚に襲われた。



 貴志は──どんな想いを込め、弓を引くのだろう。

 双眸を閉じたエルは──何を思い、その調べを聴いているのだろう。



 時折見え隠れする感情は、行き場を失った──くすぶる想い?



 悲哀に彩られた調べが流れ出し

 音の糸がまとわりついては、心を締めつける。


 身動きのとれない苦しさは、少しずつ趣を変え、不穏な気配を漂わせる。

 変化した音色が表すそれは──行き場のない苛立ちか。



 演奏から伝わる心模様は、先ほどエルから感じた様子と、何処か似通っていた。



 エルから伝わった焦燥に似た想いは、彼の中にある何某なにがしかの感情の成れの果てだったのかもしれない。



 「エルに対して、安心感を覚える」──その気持ちが伝わった際、彼が苦笑した理由は?



 貴志を想うことで、服を纏った意味を問うべからず──そう、エルが口にしたのは何故?



 未だもって──エルがわたしに伝えようとしたものの真意が見えない。



 エルがその胸に抱く、想いとは?


 彼の姿を見れば、何か真相がつかめるかもしれない。

 そう思ったわたしは、隣に座るエルの表情を確かめるべく、顔を動かした。


 けれど──

 その行動は、エルの手によって阻止される。



 彼の右腕がわたしの背後をまわり、突然引き寄せられたからだ。



 体勢を崩し、倒れ込んだ先はエルの胸。

 そこに顔を埋めたわたしは、慌ててソファに手をつき、起き上がろうとする──


「今は──そのままで」


 掠れた声が頭上から届いた。


 エルが望んだのは、男女の抱擁ではない。


 彼がわたしを抱き寄せた理由は明白だった。

 大きな手はわたしの両目を覆い、視界を奪ったまま──こちらを見るなと、態度で示しているのだろう。


 物言わぬ彼の行動と、その意図を理解したわたしは、しばしの間その望みを受け入れることにした。


 エルに身を預けたわたしは、その肩口で静かに目を閉じる。




 チェロの音色が響く。


 束の間の喜びの音色が流れるが、隠された悲哀も滲みだす。

 加速した嘆きの音色はおさまらず、心の堰を切る。


 溢れ出した感情の奔流が、表現しようとしているものは何?



 悲嘆に暮れ、気鬱にとらわれたチェロの音が紡がれる。


 貴志は──今日のわたしの態度に、寂しさを覚えたと──そう思いながら、曲を奏でているのかもしれない。


 彼の想いを信じ切れず、逃げ出してしまったのはわたし自身。

 ──彼が望むのは、目を逸らさず、対話することだったのに。



 貴志の姿を心に宿すと同時に、エルの囁きが耳をくすぐった。



「──貴志よりも先に出会っていたら……お前は私の『祝福』を受け入れたのだろうか?」



 それは、唐突な質問だった。


 ──わたしにも、その答えは分からない。

 そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。


 この世界で、初めてわたし自身を理解してくれたのが貴志だった。

 彼がいなければ、今のわたしはいない。

 暗闇から救い出してくれた感謝の念が、貴志に対する想いに影響しているのはたがえようのない事実。


 でも、分かるのはそれだけ。

 もしもの可能性で答えるのだとしたら、貴志の位置にエルがいることは否定できない。確率論にゼロはないからだ。



「そうか──お前の答えは……有り難く受けとめよう。だが──」



 一旦言葉を切ったエルは、わたしを抱き寄せる腕に力を込める。

 逡巡する空気を僅かに漂わせたのち、彼は粛々と言葉を継ぎ、わたしが求めた答えを口にした。



「お前がわたしへ向ける想いは、まるで親を慕う子のような感情だ。この場に現れるたび、お前が無防備な姿を晒していたのは、その心の顕れ──」



 エルは小さな溜め息を落とした。


「私への信頼の証だと喜ばしく思う反面、お前の心が無意識のうちに伝えていたのだ──私達の間にその先はない──と。私の前では変わらなかった姿が、貴志を思い描いた時点で変化をみせた。それが全ての答え──ここまで言えば、お前も理解できるだろう」


 わたしの目を隠していた手を離し、徐に立ち上がったエルは、こちらに背を向ける。


「星の輝きを手に入れたいと望むのは、人のさがだ」


 天空に輝く星──それは届かない場所にあるからこそ、人の目には眩くも尊い光と映るのだろう。



 エルは、わたし自身を星に例えたのだろうか?



 ──その心の呟きに、彼が答えることはなかった。



「今宵、お前が訪ねてくると貴志から聞いている。私が此処で口にしたことは忘れ──笑顔で訪ねてほしい。お前は、私のこの願いを……叶えてくれるだろうか」


 エルがどんな表情をしているのか、ここからは知ることができない。


 わたしは静かに頷いた。

 声には出さず、心の中で承諾の意を伝えたのだ。



「──感謝する。……もう間も無く、目覚めの時が訪れるだろう」



          …



 遠くで聴こえたチェロの音が、急に間近で聴こえるようになる。


 朦朧とする意識の中、わたしはゆっくりと瞼を開けた。

 横たわった姿勢のまま周囲を確認すると、そこはベッドの上。

 眠っている間にホテルへ到着し、貴志の手によって寝室に運ばれたのだろう。


 無伴奏組曲の音色は、居間から届いているようだ。


 開け放たれた寝室の扉から顔を出し、貴志の姿を探す。

 ダイニングテーブル近くに、チェロを奏でる彼を見つけた。


 気づけば軽妙な第二楽章が終わり、三楽章目に突入するところだった。






【後書き】


■『チェロのための無伴奏組曲』参考■


Santiago Cañón Valencia 氏演奏

Gaspar Cassadó Suite for Cello Solo

https://youtu.be/ebMlp9Kc_bY

↑全楽章の演奏


Janos Starker氏演奏

Cassadó: Suite - 1st mvt.

https://youtu.be/wtdENqV3FJ0

↑第一楽章のみ



何度も聴いていると中毒性が出てきます(*´꒳`*)



■『太陽と月の間』滞在中の真珠■

 …実写寄りにしてみたので、いつもと違いますが(^◇^;)


 桜の季節なので夜桜と共に


https://www.pixiv.net/artworks/88666626

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