第319話 【真珠】接触? 否、激突!


「へ?」


 こ……これは、誰がどう見ても、わたしがエルに押し倒されている図、に見えるのではなかろうか?


 ちょっとばかり貞操の危機的な──いや、「ちょっと」とか呑気に言っている場合ではない。

 かなり危険なシチュエーションだ。


 いや? 待て待て待て。早とちるな、自分!

 所詮、わたしはお子様だ。

 そんなことを思うなど、自意識過剰だと一笑に付されてしまう。


 エルはどんな思惑で、わたしを押し倒したのだろう。

 彼が今、何を考えているのか、推測さえできない。


 本来であれば、大慌てで抵抗すべき体勢なのだが、何故かそうならないのは、この空間に存在するのが生身の身体ではないから?


 それに加えて、今までのエルは、意味もなくわたしに触れたことなどなかった。

 だからこれも、何か思惑があっての行動ではないかと感じるのだ。



 出会いこそは不安を覚えたエルの存在だったが、彼の本質を知ってからというもの、その不安は安心感へと変わった。

 彼の持つ、浮世離れした独特の雰囲気は、わたしに不思議な安らぎを与えてくれる。




 エルはわたしの心の呟きに、苦笑する。


「真珠──それだ」


 ──それって、どれ?


「私が与えるのは安らぎか……では、想像してみろ。お前の上にいるのが私ではなく貴志だとしたら、何とする?」



 突然そんな謎かけをされたわたしは、混乱した勢いに任せ、その情景を想像する。


 ──この身を上から覆うのが、エルではなく貴志だとしたら?



 普段通りであれば、彼の手を引き寄せ、その掌に頬擦りをするだろう。

 経験則上、そこまでなら貴志は許してくれるのだ。


 でも、残念なことに、それ以上は絶対に拒絶されてしまう。

 いくら精神が大人とは言え、わたしの姿は幼女。過度な触れ合いを拒否されるのは、当たり前とも言えよう。



「それは、お前が子供であればな。だが──今の、お前の姿は?」



 エルの言葉に、わたしはハッと息を呑んだ。


 そうだった──現在この身体は、精神と同じく成人女性体。

 その事実に改めて気づき、わたしは乱れた胸元の衣服を慌てて整えた。


 貴志と共にいる時は常に子供の姿だった。

 だから、大人として触れ合う状況がまったく思い浮かばなかったのだ。



 音色を贈られたあの日、貴志は言っていた。

 大人になったら、わたしの全てが欲しい──と。



 その科白を聞いた『天球』の夜を思い出し、頬に朱が注がれる。

 彼との間に起きた出来事が走馬灯のように流れ、身体の奥底に熱が宿っていく。


 奇妙な感覚に襲われたわたしは、焦りを覚えた。


 このままでは、色々とまずい。

 これは、例のアレだ。

 前回、エルに鎮めてもらった、あのあやしげな熱が体内に広がりはじめたのがわかる。


 すべてがダダ漏れのこの状況。

 自分が想像してしまったとんでもない映像が、エルには筒抜けのはず。


 非常にまずい!

 あの気恥ずかしい熱を、エルに逃してもらう事態もできれば避けたい。あの処置方法は、貴志に対して後ろめたいのだ。


 どうしよう。

 このままでは、このままでは──



  乙女としての、何かが終わってしまう!!!



 居ても立っても居られなくなったわたしは、湧いた脳内で生まれ続ける映像を消去しようと奮闘した。のだが、どうやってもできない。

 兎に角、破廉恥妄想を加速させるこの体勢及び状況から、一刻も早く抜け出さねばならん。



 左右はエルの腕によって固められ、動ける方向と言ったら……──考えるよりも早く、わたしはガバッと起き上がる。



 その動きに対応しきれなかったのは、エル。

 よもや組み敷いていたわたしが、電光石火の勢いで腹筋を使って起き上がってくるなど予想もできなかったのだろう。


 重心を下に寄せていた彼は、咄嗟に飛び退くこともできず、わたしと彼は接触した。



「痛っ!」

「────ッ!?」



 否──接触なんて言葉では生ぬるい──激突だ。




 目から火花が散り、その衝撃と共に額が痛みを訴える。

 鼻先から疼痛が駆け上がり、目尻には涙がにじんだ。


 エルに至っては言葉もなくうずくまり、胸元を押さえながらゲホゴホと咳き込んでいるではないか。



 どうやら、この状況──わたしの石頭がエルの胸を強打してしまったようだ。



 ジンジンとした地味な痛みが頭に響くが、わたしは無事だ。

 けれど、目の前のエルの姿からは、言葉も出せず苦痛に耐える様子がうかがえた。


 突発的行動の結果、激しい頭突きをエルにお見舞いしてしまった事実を知ったわたしは、顔面蒼白となった。


 アルサラーム王家の現人神さまの玉体に、なんということをしでかしてしまったのか。

 万が一にも国民に知られたら、八つ裂きは不可避やもしれん。


 ──貴志の「このド阿呆」という幻聴がきこえてくる。


 いやいやいや。

 幻聴とか言って、現実逃避してはいけない。

 まずはエルの容態を確認しなければ!


 自分を叱咤しつつ、エルの身に問題が生じていないことを祈りながら、わたしは彼の近くに這い寄った。


 生身の身体ではないから、本当の意味で怪我をしていないことは、もちろん理解している。


 だが、ここは特殊な空間だ。

 精神体を攻撃されたことにより何が起きるのか、または、起きないのか──そこからして分からない未知の領域。

 遅まきながら、激突後にそのことに思い至ったという、実に情けない有り様だ。



 ──ま……まさか、消滅してしまうなんてことは、ない……よね?


 不吉な考えが過ぎり、一層の焦りが募ったわたしは、エルに寄り添いその背中をさすった。


「エル! エル? 息できる? どうしよう。急に起き上がって、ごめんなさい。お願い──い……生きて!」


 慌てるわたしを落ち着かせようとしたのか、苦痛に歪むエルの黒い瞳が向けられた。


「心配するな」


 掠れた声を絞り出したエルは、再び胸部を押さえるとそのままの姿勢を保っている。痛みが落ち着くまで、静かに耐えているのだろう。


 わたしはどうすることもできず、エルの背をひたすら撫で続けた。


          …



 しばらくすると、エルは深呼吸を繰り返し、それを溜め息に移行させた。


「まったく……お前の行動は予測ができず、対処に困る。私の行動にも非があったのに、お前に先に謝られてはこちらの立つ瀬もない──だが、残念なことに、わたしはそんなお前に……惹かれているのかもしれない」


 エルが無事で良かったと心底思う反面、返答に困る彼の言葉に、眉が八の字を描く。


 高貴な彼が慕うのは、どうやらジェットコースターのようなスリリングな女性ということが判明してしまった。


 残念対応の女性に惹かれるとは、難儀な趣味だなと素直な感想が洩れる。


 今回に限っては珍しく、トンデモ対応をしてしまったわたしだが、本来は残念女子とは程遠い超優等生。

 謂わば『デキる女代表格』のわたしとは、まるで正反対の女性が守備範囲とは、まったくの予想外だった。


 あれ?──と、言うことは……。


 ここに来て、エルの好みの女性とわたしの実情が、かなりかけ離れていることに気づく。


 そうか。

 彼は、わたしに命を助けられた恩を、恋情と思い込んでしまったのだろう。

 勘違い系ラブストーリーの王道を、エルは突き進んでいるのかもしれない。


 神に仕えていたというエルだ。

 彼の見てくれに騙されていたが、実は女性との恋愛経験は無いに等しいのだろう。


 だから、夢の中に現れたというわたしの幻に、コロッと参ってしまったという訳か。


 そんな初心なエルに対して、ハニートラップのようなことを仕掛けるとは、シェ・ラはなんと罪作りな神様なのか。


 ナルホドなるほど。

 そういうことならば、わたしの方がエルよりも、ちょっぴり恋愛経験値は高いと思われ、途端に自信がみなぎりはじめる。


 わたし、恋愛分野では、エルに勝てるかも!──と、ガッツポーズだ。


「真珠──根拠のない自信は身を滅ぼすぞ。胸に手を当てて、自分の言動を省みたほうが良い。失礼なことばかり考えていないで、少しは自重して思考を閉じろ。まったく……相変わらずだな」


 閉じることができるのならば、とっくにやっておる!

 しかも、「相変わらずだな」とは、なかなか由々しき言葉を使ってくれるではないか。


 エルの中でのわたしのイメージは、どんなことになっているのだろう?

 教えてくれ、との思いから彼の目を見つめたが、軽くあしらわれてしまう。


「その話は、もういい──それよりも……分かってはいたが──目の前で、そうあからさまに姿が変わるのを直視するのは、存外きつい」


 意味不明なエルの言葉に、わたしはコテリと首を倒す。


「変わるって、何のこと?」


 エルは苦笑してから手を伸ばし、わたしが羽織っていたジャケットに触れた。


「気づいていないのか?──これは既に必要ないだろう。返してもらうぞ」


 そう言って、わたしの身体を包む上着を剥ぎ取っていく。


「ちょ……っ 待っ……」


 いくら何でもまずいだろう。


 聖布を腰に巻きつけているとは言え、上着を奪われたら上半身は正真正銘の裸だ。


 羞恥心をそれほど感じない場所とはいえ、わたしは慌てて胸を隠す。

 けれど──触れたと思った自分の皮膚からは、何故か布の感触が伝わってきた。



 その違和感に、自らの手が触れたものを確認する。

 ──この目に映ったのは、黒いドレス。



 先ほどまで素肌を隠していたのは、エルが貸してくれた上着のみ──何も着ていなかったはずなのに。


 わたしは何故なにゆえに今、豪奢なロングドレスを身に纏っているのだろう。



「これって、どういう……こと?」


 わたしは茫然としながら、自らの姿を見下ろした。



「貴志を想い、着衣が変わったということは、つまり──そういうことだ。私の口から理由が聞きたいなどという世迷言は、受け付けない。まずは自分で、よく考えてみることだ」



 ──貴志を、想って?

 意味が分からない。



 エルは寂しげな表情で笑い、床に落ちた聖布を静かに拾い上げた。


 広げられた黒い大盤の布は、彼の手によってわたしの頭上に被される。

 その流れで身体を引き寄せられ、エルはわたしの右瞼に口づけを落とした。


 ──薄絹越しに触れたその唇が微かに震えていたのは、何故だろう。


 別れの挨拶に似たその行動から、エルが此処から立ち去ろうとしていることは理解できた。


 複雑な想いを宿した彼の瞳を見つめ返した瞬間、どこからともなくチェロの音色が舞い降り、この空間に美しい調べが満ちていく。


「貴志の……音色だな。そろそろお前の眠りが覚める頃合いか。現実の音が混じり始めたようだ」



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