第318話 【真珠】「お前がそれを言うのか?」


 驚愕に見開かれたエルの双眸は、こちらを見つめ、逸らされることはなかった。

 わたしの視線が揺らいでも、その焦点は定められたままでいる。


 エルは、わたしの何を見ているのだろう?


 今は、彼と密着する事態に慌てるよりも、心の奥底を見透かされている感覚が勝り、どう反応すべきなのか見当もつかない。


 大切な想いの──更に奥まった部分──そこに直接触れられている心地がするのは、何故だろう。



 彼の態度に疑問を抱きつつも、この口の端にのぼるのは、当たり障りのない言葉だけ。


「エル……あのね。わたし、床に座っていただけだから、いきなり横抱きにしなくても、倒れたりしないから大丈夫だよ? ちょっとフワッとして驚いたけど。えーと、その……でも、ありがとう?」


 突然の浮遊感に驚きはした。が、エルはわたしに何か不測の事態が起きたと思い、咄嗟に抱き上げたのだろう。


 だから、疑問符をつけながらも、お礼の言葉を伝えたのだ。



 とりあえず、早く腕の中から降ろしてほしいと意思表示をしつつ、今度はわたしが彼の目を覗き込む。


「エル?」


 エルからは、何の返答もない。

 そして、離してくれる気配もない。


 訝しく思ったわたしは首を傾げた。


 わたしの考えが何ひとつ伝わっていないような気がするのは、どうしたことなのだろう?



「真珠?──今、その少女と、誰を……重ねようとした?」



 エルの口から紡がれたのは──不可思議な質問。


 ──誰を……って、どういう意味?


 わたしは愛花に誰も重ねてはいない。


 抱き上げられるよりも少し前のことを思い出し、もしかしてとの可能性を頼りに、口を開く。


「えっと……それって、さっきわたしが思い出していたこと? 今日、ういちゃんと歌った曲と、尊のチェロを重ねたことを指しているのかな?」


 わたしの逆質問に、エルは首を横に振る。


「そうではない。その後──ほんの一瞬だけ過ぎったのは……」


 そこまで口にしておきながら、彼は肝心なところで口をつぐんでしまう。



 エルよ──なぜ、そこで止まるのだ。

 その先が、気になるではないか。



 わたしの気持ちが通じたのか、思案顔を見せたエルは静かに言葉を紡ぐ。


「いや……おそらくはお前自身も気づいていない、深層の……無意識下のものなのだろう。何でもない。気にするな」


「何でもないって……いやいやいや! そう言われたら気になるでしょう。何が言いたいの?」


 わたしにしては珍しく、食い下がり気味にて言葉の続きを所望する。

 だが、その願いも虚しく、こちらの望みにかすりもしない返答が戻されるだけだった。



「お前自身が自分で答えを出さねばならぬ問題だ。私から伝えるような内容ではない。今は焦らずとも、いずれ──わかる」



 答えは自分で探せと突き放された言葉から、これ以上追及しても無駄だということを悟る。

 境界線を引くかのような彼の口調から、会話の継続拒否の意思を受け取り、わたしは小さく溜め息を落とした。


 粘ったとしても、エルは答えてくれそうもない。

 現段階では、大人しく引き下がるしかないのだろう。



 謎かけに近い彼の科白に、わたしの心は穏やかではいられなかった。

 けれど、エルは「いずれ──分かる」と言った。


 その「いずれ」が何時いつのことなのか、気になりはするが、将来訪れるだろうその時を、今は待つしかなさそうだ。


「我が女神──そのご理解に、感謝の意を捧げましょう」


 急に恭しい言葉遣いになったエルに、わたしは恨めしい視線を向ける。

 はぐらかそうとしている彼の魂胆が、見え見えだったからだ。



 わたしは抗議を込めて、彼の首元のシャツを手繰り寄せる。

 ちょっとした意趣返しに、軽く締め上げるつもりで引き寄せたのだが、その行動にエルの態度が突然変わった。


 その瞳に見えたのは戸惑い──いや、動揺か?


「真珠──すまなかった。直ぐに降ろす」


 自分の腕の中にわたしがいたことを、今初めて認識したとでも言うかのような態度を受け──わたしは、ちょっとばかり頬を膨らませた。


 エルはタペストリー下のソファに移動し、そこにわたしを置くと、自らも腰を下ろした。


 あれだけ密着していたと言うのに、今更なぜ、こんなにも慌てているのだろう。

 まさかとは思うが、本当にあの距離に気づいていなかったとでも言うのか?



 それって──わたしの存在感が、あまりにもなさすぎやしませんか?

 もしもし?


 愚痴をこぼしそうになるが、グッと堪え、敢えて口には出さずにおく。

 言わずとも、伝わっているのは間違いないからだ。



 けれど、そう思った瞬間、突然エルが動いた。



「お前がそれを言うのか? 私もそっくりそのまま、同じ科白をお前に返そう。私を、何だと思っているんだ」



「へ?」


 あれ?

 ──また、だ。


 わたしがこの空間に迷い込んだ直後の、エルの不可解な態度に戻ってしまった。

 少しの苛立ちと、どこか寂しげに映るその表情は、何を思ってのことなのだろう。


 わたしには、その真意が分からない。



 エルの手がこちらに向かって伸ばされた。

 彼の掌に軽く押されたわたしは、そのまま仰向けの体勢でソファの上に倒れ込む。


 着衣が乱れたがそれを直す間もなく、エルの両手が座面に沈み込む。


 いつの間にか、寝転がるわたしの顔の左右にエルの両腕が置かれ、挟まれたわたしは身動きがとれなくなっていた。


「エル?」


 彼の行動を怪訝に思いながらも、自分に降りかかった事態を冷静に確認する。


 倒された背には、柔らかなソファの感触。

 ──うん。どこもぶつけてはいない。大丈夫だ。


 真上には、天井を背にしたエルの顔。

 ──うん? 何故エルは、わたしを見下ろしているのだろう。


 ん?

 ……顔?


 あれ?

 この体勢って……。


「へ?」



 こ……これは、誰がどう見ても、わたしがエルに押し倒されている図、なのではなかろうか!?




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