第299話 【真珠】貴志、紅子に苦労す!
貴志は深呼吸すると、迷いなく質問を口にする。
「今日、科博で、アオに似た女性を見た。アオは、やはり──実在したんだろう?」
紅子は貴志の言葉に、目を見開き、息を呑んだ。
「アオを見た? 実在? 貴志──お前は何が言いたいんだ?」
紅子は眉間に皺を寄せる。
「実在するのか、しないのか、まずはそれを答えてくれ」
貴志は紅子の問いに、即座に返す。
「実在するも何も。お前が言うアオは、葵衣のことか? 実在するに決まっているじゃないか──お前……ボケたのか?」
貴志が紅子の言葉を受けて、テーブルに拳を叩きつける。
「紅! お前、やっぱり──あの時、俺を騙したのか!」
貴志のお怒りが急激にマックスだ。
けれど紅子は、貴志が何について激怒しているのかわからず、今度は首を傾げる。
そして、わたしも意味がまったく分からない。
「騙した? 何のことだ? お前を騙したことは、一度たりとないぞ?──遊んだことはあるけどな」
おそらく、貴志
紅子は両手を腰に当て、何故か得意げだ。
貴志の怒りも何のその──紅子は悪びれもせず、茶請けに出された
「おお! これは!」
リスのように頬を膨らませた紅子の目の色が、突然キラリと輝いた。
直後、彼女は木嶋さんに声をかけ「
木嶋さんは「少しお待ちください。ただいま店舗情報をお持ちしますね」と言って、キッチンへ戻っていった。
どうやら紅子にとって、貴志の質問及びこの話題は「面白くない」モノと判断が下されたのだろう──彼女独自のモノサシによって。
そして既に彼女の心は、煎餅に夢中。
貴志は背中から黒いモノを
彼女に対して怒鳴ってしまいそうな自分を、必死で抑えている様子が伝わった。
この遣り取りを見ているだけで、貴志の長年の苦労が偲ばれ、彼を不憫に思っている自分に気づく。
葵衣のことで、未だモヤモヤしてはいるが、この件ばかりは同情の余地があるだろう。
それに二人の会話で、アオは葵衣であることが、ほぼ確定した。
紅子と葵衣に繋がりがあるのならば、晴夏が久我山一家を目にしたことがあってもおかしくはない。
予想ではあるが、海外在住の久我山家から送られたホリデーカードか何かで、一家の写真を見た可能性も充分高い。
けれど、何故、貴志は葵衣の本名を知らなかったのだろう?
貴志の態度と紅子の様子を目にし、思うところがあったわたしは、素直な感想をポロリと零す。
「紅子──もしかしてなんだけど……貴志を騙……いや、遊んだ?──こと自体を……忘れてるんじゃない?」
わたしの言葉に、貴志が呆然とした表情を見せ、紅子の顔を食い入るように覗き込む。
紅子は「ふむ」と言って顎に手を当てると、わたしと貴志の顔を交互に見つめた。
何度かそれを繰り返し、首を傾げたあと、彼女は──ニッコリと笑う。
どうやら、この態度──紅子は、本当に何も思い出せないらしい。
「紅! お前……っ ふざけるな!──俺が、どんな思いをしたと思ってるんだ! お前があんなことを言うから、俺は……俺はっ 誰かと一緒じゃないと、夜、眠れなかったんだぞ!?」
衝撃の言葉に、わたしは目を見張る。
──今、なんと!?
貴志は今、常に誰かと一夜を共にしていた、と憚りなく口にしたのだろうか!?
こやつめは──「誰彼かまわず関係を持っていた訳ではない」──と『天球』宿泊棟でわたしに告げたその口で──自らの
それも、わたしの目の前で!
この身体は子供ではあるけれど(まだ正式に振られた訳ではないので)れっきとした貴志の現恋人──しかも、契約ではあるが婚約者であるわたしのいる、この部屋で!
そこでわたしは、ハッと息を呑む。
葵衣が現れた今となっては、自分の女性遍歴がわたしにバレたとしても気にしないと──遠回しに、そう告げられているのだろうか?
つまり──わたしは、貴志にとって、既に用済み──と。
そう言うことなのか!?
この衝撃をどう表現したら良いのだろう。
言葉も出ず、涙も出ない。
身体が震え始めたその時、木嶋さんの朗らかな声が居間に響いた。
「懐かしい話題でございますね。夜になると、貴志さんが眠れない、とベソをかきながらいらっしゃって、何度か寝かしつけをさせていただいたこともございました──たしか、今の真珠さんと同い年か、もう少しお小さい頃に」
木嶋さんが煎餅情報の書かれた用紙を手に、居間に戻って来るなり昔語りをする。
ヴァ!?
今、なんと!?
「十数年も前のことですけれど……娘の出産手伝いで、ひと月ほど奥様から休みをいただいたことがあったんですが……私がお屋敷に戻ってみると──貴志さんが急に怖がり屋さんになっていらして──幽霊がどうの……と仰っては、毎夜のように泣きながら、私の所にいらっしゃって……」
貴志は、木嶋さんからの援護射撃を受け、身を乗り出す。
彼は紅子を畳み掛けようとしたが、その気勢を削いだのもまた紅子──彼女のあっけらかんとした声だった。
「なんだ貴志、そんな面白いことがあったのか? それじゃあ、夜中に、トイレにも行けなかっただろう? 恐くて!──ん? で? おねしょはしなかったのか?」
紅子は、とても楽しそうだ。
怒り心頭の貴志は、更に拳を握りしめる。
「紅ぃ……お前ってヤツは!」
既に血色を失った貴志の拳からは、彼が怒りを自制するために何とか堪え抜こうとしている様子が伝わった。
「ある時から、突然──アオが家に来なくなって、俺の避難場所が無くなったんだ! それからというもの──」
そこで貴志は、何を思い出したのか言葉を詰まらせる。
避難場所?
葵衣はその昔──幼い貴志を、助けていたということ?
それって──何から?
そう思った瞬間、わたしは反射的に紅子を視界に入れた──これは、絶対に間違いない──
わたしが結論を出すのと同時に、貴志が吠えた。
「お前の、俺に対する執拗な悪戯からな!」
──やはり紅子か。
貴志は、過去を思い出しながら、その当時のことを語る。
「アオが消えてから、俺はお前に質問したんだ。アオは何処に行ったんだ? 何故来ない? と──お前がそれに対して何て答えたのか──忘れたとは……絶対に言わせない!」
貴志がそう言い終えるや否や、紅子は即答する。
「いや──すまんが、忘れた! まったく思い出せない。何だ? 何があった? 早く話してみろ──美沙子が帰ってくる前に」
身を乗り出していた貴志は、紅子との応酬に力尽きたのか、額に手を当て大仰な溜め息と共に、ソファへと沈んでいく。
「もういい──お前と話をするのに疲れた。アオのことは、美沙が帰ってから訊く」
貴志のその憔悴しきった言葉に、紅子の表情が変わった。
「駄目だ! 美沙子の前で、絶対にその名を出すな」
急に雰囲気の変わった紅子に、皆の視線が集中する。
「いいか? 貴志──それは、わたしの為でも、お前の為でもない──真珠のためだ」
突然、名前を出されたわたしは、ジュースを飲んでいたストローから口を離す。
──どういうことなのだろう?
「真珠のため?」
貴志が、訝しげな声音で、紅子に問うた。
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