第300話 【真珠】美沙子とバイオリン


「そうだ──真珠のためだ」


 紅子は、それだけ口にすると、ふぅと息を吐いてお茶のグラスに口をつける。


「貴志──お前は、美沙子が功雄いさおのスタジオに通っていた頃のことを覚えているか?」


 その問いに貴志は首肯する。


「ああ、覚えている。この前、真珠を早乙女教授のスタジオに連れて行ったときにも、美沙子の話題は出た」


 グラスをテーブルに戻した紅子が、貴志の目を真っ直ぐに見つめた。


「あいつが──美沙子が、バイオリンを理由……それについて、美沙子と話したことは?」



 捨てた?

 わたしは紅子のその物言いに首を傾げる。


 ──『辞めた』ではなく、なぜ『捨てた』と、表現するのだろう。



「いや……気づいたときには、もう──美沙は楽器に触れることさえなかった。俺は幼すぎて、それがいつのことだったのかも……覚えていない」


 貴志の言葉を耳にした紅子は、アラレを一粒摘むと口の中へ放り込んだ。


 この場に似つかわしくない、ポリポリという軽妙な咀嚼音が響く。


 紅子の中にある苛立ちがその眼差しから伝わり、心を落ち着けるために茶請けに手を伸ばしたことがうかがえた。


 貴志も紅子の気持ちを察し、彼女が発する次の言葉を、ただ黙して待っているようだ。



 母は昔、早乙女功雄教授の音楽スタジオに通っていた。

 わたしはそのツテと、貴志の持つコネクションによって、早乙女教授と面識を得ることができたのだ。



 教授宅を訪問した日の朝、貴志と母の間で、一悶着があったことを思い出す。



 あの日、貴志が母を問い詰めたことで、わたしの手元に──母によって隠されていたバイオリンが戻ったのだ。



 コンクールで倒れた時、手にしていた分数バイオリンは、破損の恐れもあったため、父の手配により工房へと送られた。

 然るべき調整を終えた愛器は、既に自宅に戻り、音楽ルームの奥深くで保管されていたのだが──わたしに知らされることはなかった。


 貴志がいなければ、もしかしたら未だに、バイオリンは隠されたままだったのかもしれない。


 母は何故、バイオリンを隠したのだろう?


 母のその態度には、釈然としないものを感じていた。

 いくら考えても答えが出ない問題であることも手伝い、当時のわたしは自らの身に起きた辛い出来事の闇に飲まれ、その問題から目を逸らしてしまった。


 もしかしたら母は、単に、娘が倒れた時に手にしていた楽器を目にするのを嫌い、仕舞い込んでいたのかもしれない。そう思うことで、その疑問には蓋をしたのだ。



 けれど、その理由付けが覆されることとなったのは──紅子が『天球』で口にした、ある発言によってだ。



 コンクールの演奏動画は月ヶ瀬によって公開が禁じられた──紅子はハッキリと、そう口にした。



 あの演奏を──真珠の中で、伊佐子が目覚めたことで披露することになった高度な演奏について──母は、その異様さを理解していたのは間違いない。それにも関わらず、今まで一度たりと、その件に関して問われることはなかった。


 もしかしたら、バイオリンが隠された問題と同じく、娘が倒れた衝撃でそれどころではなく、質問する機会を逸してしまったという可能性もある。


 だが、違和感は常にあった。


 母は、バイオリンについての話題を、敢えて避けている節が見受けられたからだ。



 そして、おそらく──TSUKASAの音響部隊へ、コンクール動画の公開禁止の指示を出し、あの演奏をなかったものとして闇に葬ったのも──母だ。




 お茶を飲み干した紅子は、口を開く。


「だろうな──知っていたら、葵衣のことを美沙子に訊こうなんて発想は、絶対に起きないからな」



 紅子の声に、貴志がハッと息を呑み込んだ。

 何か思い当たる節があったのだろう。



「そう言えば──真珠のことにかかりきりで、すっかり忘れていたが──早乙女教授が美沙について、気になることを言っていた……」



 早乙女教授宅を訪問したあの日、わたしはコンクールの動画を目にしたあと、泣き疲れて眠ってしまったことは覚えている。

 目が覚めたのは、貴志に抱えられた中央線の電車の中。


 わたしがスタジオで寝ている間に、貴志と教授の二人は母に関する話題に触れていたのかもしれない。



「貴志──その時、功雄は何て?」


 紅子に問われ、貴志は早乙女教授との会話をひとつひとつ思い出しながら口にのせていく。


「早乙女教授は『詳しいことは分からない』、美沙が辞めた時のことを『あんな形でバイオリンから遠ざかってしまった』……『指導人生の中で、美沙子のことだけが、心残りだ』と口にしていたんだ──気にはなったが、早乙女教授の雰囲気から、それ以上は踏み込んで質問できなかった」


 貴志の言葉を聞き、紅子は目を閉じた。


「功雄も知らない──か。美沙子は、バイオリンを捨てた本当の理由を、おそらく誰にも話していない。わたしにも──お前らの両親にもな」


 木嶋さんがそっと席を外し、キッチンへ下がった。

 おかわりの冷茶を準備しているのだろう、氷がグラスに触れるカランカランという涼しげな音が、重苦しい空気に支配された居間に響き渡る。


 紅子は更に質問を重ねた。


「美沙子のバイオリンの腕前を──覚えているか?」


 貴志は首を左右に振る。


「記憶にあるのは、とても上手だったということだけ。ただ、ラジオやCDから流れる演奏よりも、美沙の音色の方が好きだったことは、はっきりと覚えている」


 紅子は苦い表情を見せた。


「だろうな──美沙子の演奏は、功雄のスタジオの中でも群を抜いていた。アイツの性格からしてトップに立つ気概はなかったが、あのまま続けていたら、プロとして通用する実力を持っていたのは間違いない──穂高と真珠の音楽センスは、美沙子から譲り受けた部分も多いのではないかと、わたしは思っている」


 衝撃の事実に、わたしの鼓動が速度を増した。


 名指導者と名高い早乙女教授のもとからは、世界に名を馳せる音楽家が多数輩出されている。

 その門下生の中で、群を抜いていたという母は、相当な腕の持ち主であったことは想像にかたくない。


 加えて、この紅子が、プロとして成功するレベルにあったと憚りなく、母を評価するのだ。


 そこまでの高みにのぼりつめる為には、相当な練習量と、弛まぬ努力が不可欠だ──が、それだけではなし得ないのが、音楽の世界。


 ただ単に「弾くのが好き」と言う感情論だけでは、到底辿り着くことの難しい領域だ。


 どんなに望んだとしても、ひと握りの音楽家しか入ることのできない場所に、母は既に到達していたというのか。


 けれど、彼女は、それを──それまで積み上げてきた血の滲むような研鑽の日々を『何か』と共に──捨てた。



 紅子が『辞めた』と言わずに『捨てた』と言った言葉の意味が、今やっと納得できた。



 母は、どんな思いで、その選択をしたのだろう。


 わたしには、バイオリンと触れ合わずに生きる人生など、到底考えられない。

 けれど、そんな思いさえ嘲笑うかのような苦しい『何か』が、母の中に訪れた。


 想像でしかない──それでも、身を切るような、苦渋の決断だったことは理解できる。



 心を落ち着かせたくて、わたしは再びストローを口に運ぶ。

 ジュースを口に含み、二人の会話に耳を傾けた。



「挑戦するコンクールの全てにおいて、万年二位に甘んじていた美沙子が、あるコンクールで、一位入賞を成し遂げたんだ。だが、喜ばしい結果を出したその日を境に──美沙子は、バイオリンから遠ざかった。同じコンクールで二位入賞した葵衣も、時を同じくして、この家に訪れなくなり、音楽とは別の道を歩んだ──わたしが知るのは……それだけだ」



 貴志の動きが止まる。



「アオもバイオリンを? 万年二位だったという美沙の上にいたのは──まさか……?」



 紅子は静かに頷き、貴志の予想を肯定する。



「そう、そのまさかだ。葵衣──藤ノ宮葵衣は、その時初めて、美沙子に土をつけられた。仲の良かった二人の間に、楽屋裏で何が起き、どんな会話がなされたのか、わたしは知らない。

 だが、美沙子がバイオリンを捨てた理由は、間違いなく葵衣にあると、わたしは踏んでいる──だから」



 そう言って、紅子は一呼吸置き、再び言葉を継いだ。



「だから、美沙子の前で葵衣の名を口にするな。その当時の苦い記憶を思い出したら──真珠は、功雄のスタジオに通えなくなるだけでなく──バイオリンを弾くことさえ、禁止されかねない」



 ──だから「真珠のために」と、紅子は声を荒げたのか。



 彼等の会話を聞くことによって、科博のレストランで繋がった疑問の点と点がつながり、答え合わせは完了した。



 久我山葵衣が学生時代の後悔を引きずり、双子に厳しくした理由。

 母・美沙子がバイオリンを『捨て』──わたしのバイオリンを隠した理由。


 勘でしかなかった。

 けれどこれらには、細い繋がりがあるような気がしたのだ。


 その虫の知らせのような、奇妙な感覚は、やはり誤りではなかった。



 葵衣が、自分の心ない言葉で親友を傷つけ、その運命を変えてしまったと嘆いた相手とは、月ヶ瀬美沙子──おそらく、わたしの母で間違いないのだろう。



          …



 紅子は話し終えると、おしぼりで手を拭い、その後しばらく動かなかった。

 けれど、何を思ったのか、弾かれたように立ち上がると、廊下に向かって歩き出す。



「──面白くない! 貴志、ちょっと顔をかせ」



 貴志は溜め息と共に頷き、即座に紅子のあとを追う。

 わたしも椅子から飛び降りて、二人の背に続いた。



「昔のことを思い出したら、ムシャクシャした。お前がいたのはうってつけだ。気分を洗い流すぞ」



 廊下を進み、向かう先は音楽ルーム。


 勢いよく扉を開けた紅子は、一直線にグランドピアノに向かい、その椅子を陣取った。


 紅子に顎で指示をされ、貴志は文句も言わず、チェロの準備をはじめる。


 荒ぶる紅子の心は、貴志に何を弾かせようとしているのだろう。



「貴志──お前が去年の『クラシックの夕べ』で、理香と共に弾いたあの曲だ──あれを頼む」


「──ショスタコーヴィチ……」



 貴志は小さく呟くと、紅子の頼みを、素直に受け入れた。








【後書き】


明けましておめでとうございます!


■御礼■


本日の更新にて、300話を迎えることができました。


皆様の応援のお陰で、ここまで続けることができました。

ありがとうございます!


次回、演奏です。

彼等は、何を弾くのでしょうか。



26話 慟哭と一歩

https://ncode.syosetu.com/n5653ft/26/

28話 空蝉と天女

https://ncode.syosetu.com/n5653ft/28/


にて、提示されていた問題の中身が、垣間見えました。


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