第296話 【真珠】貴志、悪態をつく


 貴志は葵衣と過ごした時間に、想いを馳せているのだろうか。

 椅子の背もたれに身を預け、虚空の一点を見つめて、難しい顔をしている。


 彼の心は今、葵衣との美しい思い出の中にいる──想像するだけで、この心に陰が落ちた。



 二人の間には、どんな過去があったのだろう。


 本当は、問いただしてみたい。

 けれど、過ぎた時間のことであるうちは、わたしが立ち入るべき内容でないことも承知している。


 思い出の回想で、貴志がその心に折り合いをつけ──懐かしむだけで終わってくれるならば──それでいい。


 彼の思考を邪魔することは憚られ、わたしはそっと俯いた。




 入口の隅で、館内地図を確認している久我山一家に目を向ける。

 このあと、どこを見学するのか決まらないのか、家族で額を突き合わせなから話し合っている姿が見えた。


 穏やかに微笑む葵衣は年若く見えはするが、れっきとした人妻だ。夫も二人の子供もいる。

 貴志と彼女の間に、過去──何かしらがあったにせよ、既に終わりを告げた関係であることに変わりはない。


 頭では、そう理解している。

 けれど、貴志が見せた態度から察するに、相当な思い入れのあった女性であることは想像にかたくない。


 わたしにだって、そういった忘れられない、大切な存在はいる──尊に、そして恩師ルーカスを筆頭とした家族や仲間だ。

 時々思い出しては、懐古の念に駆られる相手は、誰の心にもいるのだろう。



 もしかしたら、貴志が葵衣に向ける想いは、わたしが彼らに寄せる気持ちと同じである可能性も充分にある。



 それでもやはり、言いようのない不安が顔を出す。


 ──どうしよう。

 焼け木杭ぼっくいに火がついてしまったら。


 いや──考えたくはないが、もう既に、その火が貴志の心にいていたとしたら?


 思いもよらない運命的な再会により、貴志の中で眠っていたくすぶる想いが再燃している可能性を胸に、わたしは悄然しょうぜんとしながら彼の隣の席に腰を下ろした。







 頬杖をつきながら周囲を見回す。


 理香は三人娘と楽しそうにお喋りに興じている。

 咲也はスマートフォンでメッセージを交わしているようだ。「まじか? 良治のやつ」と言っていたので、相手は加山だと思う。

 兄と晴夏も、二人で顔を突き合わせて、真剣な表情で何かを会話中。もしかしたら愛花のことを話しているのかもしれない。

 そして貴志に至っては、先ほどから、どこか別の世界を彷徨さまよっている。



 駄目だ──わたし以外のすべての人間が、幸せそうに見える。



 ひとりだけ不幸な気分になっていることに気づき、わたしは慌てて首を振った。

 貴志から、お別れの決定的な言葉を聞く前から、こんなに弱気になってどうするのだ。


 でも、こんなに疎外感を感じるなんて、わたしの心は、かなりの重傷なのかもしれない。


 重傷?──その言葉の響きに、再び首を振る。


 それって、つまり──失恋の傷、ということになるのだろうか?

 

 そんな不吉なことを、一瞬でも思ってしまった自分を叱咤する。

 が──そうなるのも時間の問題のような気がして、わたしはテーブルに突っ伏した。



 美しく成長した愛花に貴志が再会するより以前に、葵衣の登場で、わたしは早々に失恋してしまうのか。



 やっと、誰かを愛する気持ちを知ったばかりだと言うのに、こんなにも呆気ない幕引きになるとは夢にも思わなかった。


 諦めにも似た思いを抱え、けれど──貴志のことが気になって、その横顔を何度も盗み見てしまう。



 つらくて──泣きたい。

 悪い考えもノンストップだ。



 つい最近、貴志を絶対に誰にも渡さないと宣言したにも関わらず、こんなにも心乱れている自分に驚くばかり。


 悲しい哉。

 気持ちを奮い立たせたいのに、その気力自体が湧かないのだ。



 愛されている──貴志から注がれる温かな想いだけで、あんなにも強く在れた事実に改めて気づく。



 あの満ち足りた時間を、すべて無かったことにしなくてはいけないのだろうか?

 考えるだけで絶望感が広がった。


 その恐ろしさが心のかせとなって、身体がどんどん重くなる。



 もし、この想いに行き場が無くなったとしたら、わたしはどうしたらいいのだろう。



 他人に対して恋愛感情を持つのも初めてのことだった。

 そして、今日、わたしは、失恋も初体験してしまうのかもしれない。


 周囲の家族づれの夫婦やカップルが、先ほどから妙にチラチラと目に入る。

 世の中の男女は、こんな思いを幾度となく繰り返しては不死鳥のように蘇り、新たな相手を見つけては笑い合っている事実に気づき、今更ながらではあるが茫然自失状態だ。


 失恋に耐えうる強靭な心を所持するだけでなく、新たな恋へと走り出せる強さが心底羨ましくなった。



 連綿と続く歴史の中で、人類は──いや、動物、果ては単細胞生物でさえも、こんなにつらい経験を何度となく繰り返していたのだ。

 種の繁栄のため、その艱難辛苦を乗り越えて現在まで命を繋いできたのだろう。


 今のわたしにとっては、もうそれだけで、尊敬に値する偉業だ。


 あとになって思えば、この時のわたしは、間違いなく残念脳に侵されていたことが分かる。


 単細胞生物は分裂で増えるので、恋愛など必要ないことにさえ、完全に頭の中から消えている有様だったのだ。


 自分の心が手一杯すぎて、苦しさを紛らわすための自己防衛なのか、己の妄想がどんどん壮大になっていく。


 はるか遠い時代にまでも遡り、惚れた腫れたで苦しんでいた類人猿がいたのかもしれないと思った途端、怖いくらいに胸が苦しくなった。


 ルーシーさんに会いたい。

 ルーシーさんも、苦しんだのだろうか。

 こんなつらい想いをして、それでも恋をして、子々孫々へと命を繋いでくれた彼女に対して畏敬の念が生まれる。


 貴志と共に生きますと、ルーシーさんに対して宣言するつもりだったと言うのに、今日の科博訪問は失恋報告会になってしまいそうな様相だ。


 いや、駄目だ。

 今、彼女に会いに行ったら間違いなく号泣してしまう。


 そんなことをしたら、貴志を困らせることになる。



 両目に熱が溜まり、耳の下が痛くなる。

 涙を零さないよう必死に歯を食いしばり、わたしは洟をすすって落涙を懸命にこらえた。



 最悪の事態──初めての失恋を想定し、その場合の自分の心の対処法を探そうと目を閉じる。

 それでも一縷の望みを捨てきれなかったわたしは、薄目を開けると、貴志の横顔を視界に入れた。


 しばらくの間、貴志を眺めていて気づいたことがある。



 何故か──貴志の機嫌が、時を追うごとに、どんどん悪化していくように見えたのだ。



 一体、どうしたのだろう?

 その理由を少しでも理解したくて、わたしは想像力を働かせる。


 もしかしたら、貴志を捨て、他の男性と家庭を築いた葵衣に対して、やるせない思いが募った結果──それが怒りに変わってしまったのだろうか。

 残念なことに、それ以外の考えが、今のわたしの思考からは生み出されない。


 二人の関係は、すべてわたしの想像でしかない。

 けれど、わたしの脳内は完全に悲劇のヒロインと化しているため、建設的な考えがまったく浮かばないのだ。



 悲しみの境地で、深い溜め息を落とした瞬間──貴志が舌打ちをしながら悪態をついた。




「紅のやつ! それに美沙も……帰ったら、絶対に、問い詰めてやる」




 それは、怒りにまかせて、思わず声に出てしまったというような科白。

 貴志の中で、葵衣とのめくるめく愛と追憶の日々が、嫌な思い出と繋がってしまったのだ──多分。



 年若い貴志と葵衣との関係を、紅子や母に引き裂かれでもしたのだろうか?



 いや、待てよ?──母がどんな対応をするのかは未知数だが、紅子は違う。



 炎の女・柊紅子なら、「それは面白い!」と囃し立て、二人の関係を間違いなくお膳立てするに違いない。

 それだけではなく、二人が駆け落ちをすると言ったとしても、諸手を上げて賛成し、更には手を貸すだろう。


 二人を思って手助けしようという善意からの行動ではなく、ただ単に、紅子がワクワク楽しい時間を送るために。



 と、すると──貴志が、紅子と母に怒りを募らせるに至った理由は何だ?



 そこに今回の彼の不可解な言動のすべてが、集約されているような気がする。



 ──あ……れ?



 わたしはそこで、不思議な引っ掛かりを覚えた。

 何か──見落としている情報があるような気がしたのだ。


 考えても考えても、恋愛脳に侵された極めてポンコツな現在のわたしの頭では、その理由がまったくわからない。


 この奇妙な違和感──これは一体、何なのだろう?




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