第297話 【真珠】晴夏の疑問


 謎が謎を呼び、新たな疑問が生まれるも、頭の中は貴志と葵衣についての勝手な妄想ばかりが浮かんでは消える。



 己の豊かな想像力が、自分の心を傷つけるという哀しい現状に押し潰され──先ほど感じた違和感の正体さえ、何も思い浮かばない。



 それどころか、わたしの脳内では、とうとう──紅子に応援された貴志と葵衣の二人が、手に手をとって逃避行する映像が流れはじめた。


 妄想を止めることができず、惨めな気持ちで半べそ状態。

 自分がこんなにも弱くなるなんて、想定外にも程がある。


 洟をズズッと吸った瞬間、隣に座る貴志の口から浅く長い溜め息がゆっくりと吐き出され、わたしはビクッと肩を揺らした。



 彼の背中から立ち昇る、黒いオーラのようなものを、この目が捉えた気がした。錯覚だけれども。



 先ほど、貴志の口をついた悪態後から、彼の中でふつふつと湧き起こった苛立ちが更に高じ、とうとう心の臨界点を突破したのかもしれない。



 まずい。

 理由は分からないが、貴志は、お怒りモードへ完全移行してしまったようだ。


 今、下手な言動をとったが最後──わたしがとばっちりを受けかねないことにも気づき、涙の代わりに冷や汗が流れる。


 如何いかんともし難い状況にゴクリと唾を飲み込んだところ──唐突に理香の声が降ってきた。



「──ねえ、ちょっと、真珠? 貴志は一体どうしちゃったの? 顔が怖いんだけど」



 それまで三人娘と共に女子トークを繰り広げていた理香が、暗黒面に堕ちた貴志の様子を怪訝に思ったのか、わたしにそっと耳打ちした。


 わたしは貴志に視線を定めたまま、気もそぞろで理香の問いに答える。


「よく分からない──けど、理香の他にも貴志には『過去の女』がいたみたい。さっき科博ここで発見して──その人が、人妻になっているのを見て……怒っている──のか……な?」


 ──予想でしかないけれど。



 その言葉に理香が瞬時に瞳を輝かせた。


 貴志と人妻の話題に、すぐにでも食いついてきそうな勢いで身を乗り出した理香ではあるが、何故かわたしに対してちょっぴり憤慨しているような素振りをみせた。



「ものすごく楽しそうな話題なんだけど、その前に──貴志の『過去の女』っていうのに、わたしを加えるのは止めてちょうだい。一度、寝たくらいで、そんな風に言われるなんて、心外よ」



 理香の言葉を耳にした咲也が、飲んでいたお冷やをブフッと勢いよく吹き出した。



「は!? 理香、お前!? まさかとは思うが……貴志を、襲ったの、か?」



 咄嗟におしぼりを手にした理香は、咲也をキッと睨んだ。

 彼の吹き出した水滴をそのおしぼりで丁寧に拭きつつ、理香は反論する──少し斜め上な切り返しで。


「ちょっと咲ちゃん、汚いわね! それに、人聞き悪いこと言わないでちょうだい! か弱いわたしが手篭めにされた、という発想は浮かばないワケ?」


「おま……っ 浮かぶか!」


 咲也が即答する。


 お互いに同意の上で──という考えが、どうして出てこないのか。果てしなく不思議だ。


 理香と咲也の言葉の応酬に、三人娘が唖然としている。

 男女の仲に関わる話題自体、純粋なお嬢さん方である彼女達には、刺激が強過ぎるのだろう。

 かつてのわたしも、三人娘と同じく、心のけがれを知らぬお嬢さんであったのだが、彼等と関わったことで、もう慣れた。


 純粋三人娘は、まさかそんな関係に一度でも陥った男女が、何事もなかったかのように友達として過ごしている事実が驚きだったようだ。


 それは、理香と貴志が、お互いに愛を求め合うような間柄ではなく、それぞれの傷を慰めあう──いわば救いを必要とする仲だったからこそ、なし得たのではないかと思う。


 一度きりとはいえ、二人が犯したあやまちを軽蔑する人間もいるだろう。正直に言えば、わたしも面白くはない──が、三人娘の眼差しは、どちらかというと大人の未知の関係に憧れるような、憧憬にも似たそれだった。


 そして、やはりと言うか、二人の会話に対して、貴志からは何の応答もない。


 いつもなら、その手の話題もどこ吹く風で、飄々と一蹴する貴志だが、現在彼は、お怒り形態に変化へんげ中。

 この場を収める役を、買ってくれそうにもない。


 いや、そもそも、理香と咲也の会話自体、貴志の耳には入っていないのだろう。



「──皆さん。子供に聞かせていい内容かどうか、御一考を──」


 兄が咳払いをしながら、「自重せよ」と忠告する。


 その瞬間、テーブルに座る大人全員(貴志を除く)の表情が凍りついた。


 ここから兄の表情は見えないが、きっと王子さまスマイルを見せたのだろう。

 見た者すべての時間が止まり、虜になってしまうほど魅力溢れる笑顔を、兄が振りまいたことだけは理解できた。


 いつもわたしに見せる、天使のように可愛らしく、尊い笑顔を披露したはずだ。


 貴志のことで思い悩んでいたが故に、兄が皆に見せた癒やしの表情を拝めなかったわたしは、溜め息をつく。

 見た者が身動きできなくなるほどの魅惑溢れる笑みを見逃したことが、残念でならなかった──踏んだり蹴ったりとは、このことを言うのかもしれない。



 ひとまず、大人達の会話を静止してくれた兄に、感謝をしなくてはならないな──そんなことを思いつつ、わたしは晴夏へと視線を移した。


 こんな話題、子供の──晴夏の情操教育上、良くないに決まっている。彼は大丈夫だろうか──と、心配になったのだ。


 けれど──


 晴夏は、理香と咲也の会話を聞いてはいなかった。



 彼の瞳は一心に、レストラン入口へと注がれていたのだ。


 晴夏の視線の先を確認すると、レストランから出て行く久我山一家の背中が見えた。



「ハル? どうしたの?」



 わたしの声に驚いた晴夏がこちらを向き、そして難しい表情を見せる。



「いや……今、レストランから出て行った家族──見たことがある気がしたんだ。でも、どこで会ったのか……思い出せない」



「へ!?」



 わたしは驚きに声をあげた。


 今、出ていったということは──その家族とは、久我山一家のことだ。



 これは一体、どういうことなのだろう。


 晴夏が、何処かで目にしたことのある家族──その意味は?



 自分の中の情報を照らし合わせた瞬間──心の琴線に、再び何かが触れた。



 あれ?

 もしかして?


 いや、でも、まさか?



 わたしの中に、ひとつの可能性が生まれる。



 『その』の情報を並べ、そして、真珠の中で目覚めてから常に隣り合わせだった疑問の欠片が、今初めて──カチリと音を立ててリンクした。





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