第272話 【真珠】優理香の匂い
「真珠――なんだ? その態度は……
優吾に対しての警戒からくる威嚇を『独り占め』という子供の独占欲と受け取られてしまうとは――いや、昔の『真珠』だったら充分にあり得る自己中心的欲求だなと肩を落とす。
それにしても――優理香?
誰だ、それは?
「優吾!……くんは、どうしてこんなところに? ラシード達と一緒でしたよね? 離れて大丈夫なんですか?」
わたしの言葉に優吾が首を傾げる。
「何だ? 俺のことを心配しているのか?」
――チガウ!
職務放棄か、と遠回しに伝えたのだが、優吾にしては珍しくポジティブな受け止め方をしたようだ。
反論すると話が進まないので、とりあえずわたしは黙殺することに決める。
わたしの沈黙を肯定と受け取ったのか、優吾がポケットからプラスチック製の小さなスプーンを取り出した。
「俺がここにいる理由は、これだ――真珠、このスプーンに見覚えがあるだろう?」
優吾の掌を覗き込む。
「これ、池袋のショコラティエの……?」
エルと貴志と一緒にラフィーネ王女のお遣いに出た折、ラシードと一緒に食べたアイスクリームに使用した――使い捨てのミニスプーンだ。
「殿下の宝物だと言っていた。これを紛失したことに途中で気付いたらしいが、王族としての矜持なのか我慢していたようだ。が、所詮幼い子供だ。ちょっと
以前の優吾だったら面倒臭がって、ラシードの変化など気にも留めなかっただろうに、どういう風の吹き回しなのだろう。
「でも、別に優吾くんが探す必要、ないですよね? きっと秘書さんは先に館内へ手続きに入っていたのでしょう? その人に探しに来させたらよかったのに」
そう――そうしてくれていたら、わたしも理香もコイツに会わずに済んだ筈なのだ。
「ふぅん……お前、だいぶ状況判断ができるようになっているな。月ヶ瀬家の教育の賜物か? お前の言うとおり、先に入館していた秘書に探しに行かせようとしたんだが、聖下から俺が探しに行けば『望みのものが手に入る』と言われて――その話に乗ったまでだ――まさか、本当に、邪魔者もなく会えるとは、思ってもみなかったよ――優理香」
まただ。
優吾が理香を見つめて、優理香と呼んでいる。
エルの言葉に優吾が従い、彼がここにいたことは理解できた。
仕事を放り出していなかったことにも安堵する。
そういえば、優吾との出会い頭に『本当に来たか……』と意味不明な呟きを洩らしていたが、エルからの予言があったからなのか。
『望みのものが手に入る』
それって、もしかして理香のこと?
でも、『この音』の中で、理香は将来、加山と結婚することになっている。
そう、伊佐子がいない、本来のゲームの世界に於いては――
わたしが理香を見上げようと後ろに顔を向けた瞬間――ブワッと風を切るような音が聞こえ、突然視野がひらけた。
何が起きているのか分からず茫然としていたところ、背後にいた筈の理香が目の前にいる違和感に気づく。
わたしの視点の方が理香よりも高く、彼女を見下ろしているのは何故なのか。
理香は口元に手を当て、驚きに目を見開いている。
わたしは自分の居場所を、遅ればせながら認識することとなった。
どうやらこの身は優吾に捕獲され、彼の右腕に載せられてしまったようだ。
貴志に助けを求めたい衝動に駆られるが、現在彼は未知留ちゃんを連れて救護室にいるため、そんな願いでさえ届かない。
次に優吾のとる行動が全く読めず、わたしの身体は硬直し、声も出せない有り様だ。
「お前がチョロチョロと何処かに行ってしまうと、優理香と話ができないからな。暫くここにいてくれ」
優吾はそう言ったあと、何を思ったのか突然その動きを止め、わたしの頭に視線を移した。
彼は怪訝な表情を見せると、わたしの頭頂近くの匂いを嗅ぎはじめる。
驚く間さえ与えられずに近づいた優吾の顔は、匂いの確認を終えると、スッと離れていった。
彼は不思議そうに首を傾げ始める。
――優吾の様子がどうもおかしい。
「お前から……優理香の匂いがする――移り香……か?」
そう言って再度匂いを確かめるために、優吾が鼻先を近づけた。
――優理香の匂い?
先ほどから続く会話から察するに、優吾は理香のことを何故か『優理香』と呼んでいるようだ。
そして、この優吾の態度――こいつに似つかわしくない柔らかな表情に、わたしは言葉を失う。
そう言えば、以前会った時よりも、雰囲気がまともになっているような気がしなくもない。
それに、わたしから香る匂いというのは、おそらくエルから渡されたアルサラームの『聖水』が生み出す芳香だ。
皆が一様に――『懐かしい香りだ』と口にする、その香り。
わたしが感じるその匂いは――思い出の香りだ。
時に――伊佐子時代の匂いだったり、貴志に抱きしめられた時の香りだったりと、すべてが穏やかで温かな時間を思い出すものばかり。
優吾は、わたしから理香の香りがすると口にした。
つまり、優吾は――理香に対して、やはり何か特別な想いを抱いている――ということなのだろうか?
「ちょっと! いい加減、真珠を離しなさいよ。姪っ子相手に何をやっているのよ!」
理香が慌ててわたしを剥がしにかかるが、優吾は近づいた理香の腰に腕を回すと、そのまま彼女を強く抱き締めた。
「優理香。お前と俺は、もう二度と会わない筈だった。でも、こうしてまた出会えた。お前は覚えているか?――俺が、最後に伝えた言葉を」
理香の動きが凍りついたように止まった。
優吾の行動に驚いたわたしは、理香を離せと叔父の胸を叩くがビクともしない。
「優吾の馬鹿者! 理香を離せ! 姪っ子として、お前の痴漢行為は許せん!」
わたしの言葉を聞いて、我に返った理香も抵抗を試みる。
「何するのよ! 離して! 今更こんなことをして、何が目的なの!?」
理香の言葉に、優吾は咄嗟に反応を返す。
「嫌だ! 次に出会うことがあったら、離さないと――必ず捕まえると、俺は伝えたはずだ。真珠、命令だ!
優吾の命令口調に『真珠』が反応してしまい「はい、優吾くん」と即答し、条件反射のようにわたしは目を閉じた。
しまったと慌てて瞼を開けるまでに、数秒の時間を要してしまう。
目を開いた瞬間、二人の衝撃の光景が飛び込んできた為、わたしは完全に動けなくなった。
いや、動くどころではなく、声さえ出せない状況に陥ったのだ。
目の前には、理香の口を自らの唇で塞ぐ優吾の姿。
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