第273話 【真珠】理不尽な接吻
わたしは驚きのあまり、目を皿のように広げ、二人の様子をなす術もなく見守った。
おそらくわたしの落下防止なのだろう――優吾の腕にこの身体はガッチリと捕獲されている。
理香を助ける為に動きたくても、まったく身動きのとれない有様だ。
最初のうちは抵抗を見せていた理香。
けれど、途中から一人で立っていられなくなってしまったようで、現在は優吾に身を預け、されるがままになっている。
救出方法を思案したいのに、悲しい哉――恋愛ビギナーのわたしの目の前で、こんなに激しい大人の生キッスなど見せられては纏まる考えもまとまらない。
――まずい、衝撃的すぎて動悸が始まった。
将来貴志とチュウをする時の参考にしよう――などと、この状況下において、一瞬でも不謹慎な考えの湧いてしまった頭を振り、慌てて己の残念脳の中から追い出す。
けれど、あまりにも長い口づけに、今度は別の疑問が頭をもたげる。
呼吸困難に陥らないのだろうか?
そもそも、どうやって息をするのだろう?
ああ、そうか――鼻で空気を吸って、そこから吐けば良いのだな、と冷静に自問自答していた己を叱咤する。
優吾の唇は、理香の口から顎へ、首筋へと移動していく。
当の本人である理香は、自分の身に何が起きているのか既に判別不可能な状況――その瞳には動揺と驚愕が入り混じり、正常な判断を下せるような心理状態でもなさそうだ。
いやいや、それよりも、このまま
焦ったわたしの視界に突然飛び込んできたのは、優吾のバーガンディのネクタイ。
もう、これしか優吾を止める方法が思いつかず、わたしは迷わずそれをガブリと口に
ネクタイのシルク地が痛んでしまうかもしれないが、今はそんなことに躊躇している余裕はない。
姪っ子の割り込みによって己の行動を妨害された優吾が、舌打ちをしながらこちらに顔を向ける。
その目が合った瞬間――理香を求める優吾の眼差しと、
酩酊した弟から口づけを受けた――あの夏の夜。
その思い出により湧き起こった情動は、懐かしさではなく――悲しみを伴った、怒り――だった。
理由のわからない口づけほど、不条理で不可解なことはない。
優吾の理香への仕打ちは、わたしがその昔困惑し、未だに引きずり続けている――尊からの、理不尽な接吻を彷彿とさせたのだ。
いや、優吾の行動は、尊の行いとは似て非なるものであると分かっているし、こちらの方がより
だから、より一層、叔父に対して、言いようのない怒りが湧いたのかもしれない。
この場にはいない尊への、釈然としなかった当時の気持ちも相まって、わたしは優吾に苛立たしさを募らせた結果、八つ当たりに近い言葉を放つ。
そう――口にのせる言葉に、まったく気遣う余裕もなく。
「アホ優吾! それ以上、ここで盛るな! そういう行為は人目のない場所で、同意の上で行え! 意味も分からずにキスされたら、
わたしの声で我に返ったのか、理香はいつの間にか一人で立ち上がり、優吾から離れてフラフラと
両手で顔半分を覆ってはいるが、見える部分の肌は赤く染まり、目には涙が溜まっている。その細い肩を荒く上下させ、潤んだ瞳は完全に泳いでいた。
今現在、理香の目に、わたしの姿は映っていない。
彼女の意識は、優吾の存在のみに焦点を合わせているようだ。
「……え……何? ちょ……これって……どういう……?」
理香の困惑に満ちた声が、その口から洩れた。
「優理香――いや、理香……俺は――」
優吾が彼女に向かって手を伸ばしたが、激しく動揺していた理香の中で何かが限界値を突破してしまったようだ。
「ちょっと待って! 来ないで! 考えさせて! お兄さま!――って、え? あれ? わたし……何を!?」
理香は完全なるパニック状態だ。
優吾のことを兄と呼ぶその様子から、その混乱度合いの程が伝わってくる。
本人も何を口走っているのかサッパリ把握できていない様子で、思考も完全停止してしまったようだ。
優吾は理香が次にとる行動をうかがっていたのだが、この緊迫する空気を切り裂いたのは理香だった。
焦燥に駆られた彼女は胸元をおさえると、突然こちらに背を向け、次の瞬間――脱兎の如く、走り去ってしまったのだ。
そう、わたし一人を優吾の元に残して――
理香の行動は予想通りだった。
優吾に無体な真似をされ、彼女の意識が優吾のみにフォーカスしていたことに気づいた先程から――
危機に直面した時、その現場から逃げるのは生き物として当然の行動だ。それが生存本能というものだろう。
だがこの後、わたしを優吾の元に置き去りにしたことに気づいた理香が、更なるパニックに陥ることも予見され、わたしは深い溜め息をこぼした。
「叔父とは言え気をつけろ」と、なかなかに見当違いなことを忠告してくれたのは理香だ。が、その優吾の元に、不可抗力とは言え、わたしを残してしまった彼女が自己嫌悪に落ち込むことも予想できた。
けれど、幸運なことに、理香の傍には兄がいる。
おそらく彼が理香を宥めてくれるだろうことも、全て想定内。
なんだかんだ言いつつも優吾は、兄とわたしに対して但し書きつきではあるが、心を砕いてくれることがそれなりにあったからだ。
理香を平然と見送ったわたしとは違い、優吾は茫然と佇んでいる。
彼が呆気にとられた一瞬の隙をついて、理香は逃げ出してしまったのだろう。
彼にとっては、理香が自分の手元から逃げる未来はまったくの想定外だったようだ。
我に返った優吾が、理香を追いかけようとするのが分かった。
「優理香! 待っ……――真珠!? 離せ!」
優吾の動きを阻止したのは、わたしだった。
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