第271話 【真珠】パレオパラドキシア


 アルサラーム御一行様を除けば、わたし達がいち早く入館できたこともあり、見学客はさほど多くはない――のだが、それでも周囲からの視線を感じるとは、如何いかに!?



 いや、その理由は言わずもがな判明している。



 天使王子の兄と、氷の王子の晴夏。その背後には日本人にしては薄い色素を持つお姫様のような理香。更には『綾サマ』こと咲也だ。



 ――目立たないわけがない。



 これ位の視線で済んでいるのは、先頭に並んでいたおかげ――入場者の数が少ないうちに観覧できているからだ。



「咲也って、やっぱり『綾サマ』なんだね」


 わたしの言葉に、咲也が「なんだそれは」と言っている。


「だって、まさか未知留ちゃんがあんな事になるなんて思いも寄らなかったから。『綾サマ』効果には、恐れ慄くばかりだよ」


 外にいる時はサングラスだった咲也の顔隠しアイテムは、室内に移動して暫くするとレンズの色が薄くなり、いつの間にかその用途はメガネへと変化していた。


 紫外線で反応するレンズか。

 そういえば、尊も小さい頃に使っていたな、と懐かしく思う。


「だから咲子で来いって言ったのに。馬鹿咲ちゃん! 女の子に鼻血を出させるなんて、可哀相に……っ」


 理香の怒りが再燃したのか、プリプリした雰囲気が伝わってくる。


 咲也に向けて理香の説教が始まりそうになったすんでのところを――兄が声掛けし、彼女の意識を咲也から逸らした。


「理香さん、あれを僕と一緒に見ませんか? 珍しい化石みたいなんです」


 痴話喧嘩勃発か? と、周囲からの視線が集中しそうになった状況を察知した兄が機転を利かせ、咲也に助け舟を出したようだ。



 ――グッジョブです、お兄さま!



 わたしと咲也は同時に安堵の息を洩らし、目を合わせて苦笑いだ。



「真珠、晴夏くんとしっかり手を繋いでいるんだよ」



 兄がそう言ってわたしの手を離すと、理香の手を引いて展示コーナーの一角に連れて行く。

 わたしは頷いて晴夏の手を握り直し、二人の後ろ姿を見送った。



「理香さん、これ『謎の海獣』なんですって。僕、初めて見ました」



 咲也を理香から守った兄の勇姿をもう暫くこの目に焼き付けておきたいと思ったけれど、兄の言葉に今度はわたしがピクリと反応する。



 『謎の海獣』――まさか!


 アレが科博特別展の展示物として、貸し出されているのだろうか。



 蘇る記憶は、伊佐子の子供時代――祖父母に連れて行ってもらった埼玉県立自然の博物館の映像だった。


 兄と理香の向こう側に見えたのは、三体にも及ぶ哺乳類とおぼしき骨格標本のレプリカだ。



「やっぱり、そうだ! うわー! パレオパラドキシア!!!」



 わたしは晴夏の手を振り払い、更には兄と理香を追い越して、パレオパラドキシアの展示の前にそそくさと近寄り、陣取った。



 そう、これは、伊佐子が幼稚園の頃の思い出だ。

 サンクスギビングの休暇を使って日本に遊びに来ていた椎葉しいば一家は、祖父母から紅葉狩りに誘われ、玉淀たまよど川に程近い長瀞ながとろにある月の石もみじ公園へ行楽に出かけたのだ。

 そして、その帰りに、隣に立つ博物館に寄ってもらった記憶がある。


 そうだ!

 そこで尊が大泣きしたんだっけ。



 館内に入ると天井からは巨大なサメ――カルカロドン・メガロドンの復元模型が出迎えてくれたのだが、幼かった尊はそれを見上げた時、あまりの大きさに恐れをなして泣き出してしまったのだ。


 鮮新世に絶滅してしまったこの巨大サメの歯の化石が発見されたのは、海無し県である埼玉県の古い地層から。


 太古の昔には、奥秩父の山裾まで海水に浸っていたと知った時の衝撃は、未だもって忘れられない。


 その古秩父こちちぶ湾に生息していたのがパレオパラドキシアだと祖父が説明してくれ、更に『謎多き海獣』という言葉に悠久の浪漫を感じ、胸をときめかせた覚えがある。



 そう――その時初めて、思いを馳せたことも無かった連綿と繋がる『過去』の上で、自分の生きる『今』が成り立つ事実を理解したのだ。

 漠然と生きているだけだった伊佐子が『時間の概念』を知り、自分に真摯に向き合うきっかけを与えてくれたのが何を隠そう、このパレオパラドキシアだ。


 あの脳内を何かが駆け巡るような感覚は、もしかしたら自分という『個体』をハッキリと認識するに至った、記念すべき瞬間――自我の芽生えだったのかもしれない。



「うわ……っ 本当に懐かしい! 何年ぶりだろう! 久々に見た」



 思わず口をついて飛び出した科白に、兄がクスリと笑う。



「そうなんだ。君には、何年も前の懐かしい思い出があるんだね――僕は今日、初めて見たんだけど」



 兄の言葉にギクリとする。


 ――そうだった。


 『伊佐子さん』と呼ばれた昨日。

 あの冷や汗ものの事態を思い出し、わたしは咄嗟に引きつった笑みを浮かべた。


 兄は天使のような微笑みをその美しい顔に湛え、わたしを静かに見つめている。



 どうしよう。

 今は、まだ話せない。

 でも、何か話さないと!


 だが、言葉は何も出てこない。



 そうだ、晴夏だ!――ここは晴夏に助けてもらおう。



 先ほど手を振り払ってしまったことを完全に忘れ、彼の姿を探す。


 我ながら掌返し感がすごいと思うが、今はそんなことを気にしている余裕はない。


 だが、晴夏を視界に入れると、彼は難しい表情で何事かを思案しているようだ。



 とうしたのだろう?



「シィ――今の言葉……それは、もしかして君が話してくれた『椎葉伊佐子』という人と、関係があるのか?」



 何故だ!?

 何故、今、その名を問われるのだ!



 まさか晴夏からも追い討ちをかけられるとは思わなかった。



 真珠包囲網が徐々に狭まっていくことを感じ、わたしは目の前にあった理香のスカートを掴んだ。



「お……お手洗い! 理香、麦茶を飲み過ぎてトイレに行きたくなった! お願い、ついてきて!」



 わたしは理香の手を咄嗟に引っ張り、トイレ目掛けて走り出す。



「え? ちょっと、真珠? なんでお手洗いの場所をあんた――知ってるのよ? 初めて来たんでしょう?」


 理香が咲也を振り返る。


「咲ちゃん、穂高と晴夏をお願いね。わたしは真珠をトイレに連れて行ってくるわ。これから更に混雑するから、しばらくは別行動をしましょう。後で出口で待ち合わせね」


 わたしと理香は男三人を残し、トイレへと急いだ。


「真珠? そんなに緊急事態なの? 大丈夫?」


 理香の声に我に返り立ち止まったが、時すでに遅しだ。わたしは突如現れた何かに激突し、フラリとよろけて倒れそうになる。


 展示品だったら相当まずいことに気づき、倒れながらもサーッと青ざめたわたしだ。が、差し出された腕に抱き留められ、転びそうになるところを助けてもらえたようだ。


 科博の職員さんだろうか。


「ごめんなさい。それと……ありがとうございます!」


 わたしは勢いよく頭を下げた。


 床に向けられた視界を埋めたのは、何故か見覚えのある革靴と品のある織りが際立つグレーのスーツだ。


 わたしの心臓がドキリと跳ね上がる。



……、いや、それよりも、血相を変えて――どうしたんだ?」



 その声にも聞き覚えがあり、ガバッと顔を上げる。



 ――何故、お前がこんなところにいるのだ!


 しかも、ひとりで!




 兄と晴夏から逃げたはずなのに、一番会ってはいけない捕食者プレデターの懐に飛び込んでしまうとは、やはりわたしは前世で何かをやらかしているのかもしれない。



「ぅひ……っ 優吾!?」



 わたしの声を聞いた瞬間、優吾は不敵な笑みを見せた。

 悪巧みでもするような視線に晒されているのは、絶対に気のせいではない。



「『優吾くん』――だろう? 俺の名前を呼び捨てにするとは、お前も随分と偉くなったもんだなぁ」



 ――あ、これはまずい。



 蛇に睨まれた蛙のように、わたしの全身は固まり、身動きがとれなくなってしまう。



 いやいや、駄目だ!

 固まっている場合ではない。



 今は第一に、なんとしても――理香を守らねば!!!



 わたしは理香を背後に隠すように立ちはだかり、彼女を守るべく両腕を必死の思いで広げた。


 優吾がその行動を見つめて、吹き出して笑っている。

 珍しく楽しそうな様子だ。



 くそう!

 自分が小さすぎて、理香を完全に隠すことができない。



 いつもならば優吾を怖がって怯えていたわたしだが、この状況ではそうも言っていられない。



 兎にも角にも、理香を守りたい一心だった。

 雛鳥を守る親鳥のような仕草で優吾の前に立ち、わたしは精一杯の威嚇を試みた。





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