第270話 【真珠】混沌(カオス)!
「真珠、そろそろ移動するみたいだよ?」
兄が左手を差し伸べ、わたしは右手でその掌を握る。
「シィ、行こうか?」
晴夏からは右腕を出され、それを左手で掴んだ。
「いいか? 穂高、晴夏。何があっても真珠の手を離すなよ」
貴志が二人に念押しすると、美少年二人がしっかりと頷く。
それを確かめた貴志が二人の肩をガシッと掴んで「本当に頼んだぞ」と更に最後の念押しを加えた。
何だかものすごく問題児扱いされているような気がするが、多分それは気のせいだ。
――安心してくれたまえ!
わたしはその昔――平たく言えば伊佐子時代――所謂優等生の称号を欲しいままにしていた女なのである。
そして、その素養を引き継いでいる真珠は、紛れもなく優等生以外の何者でもない!
揺るぎない自信がある故、己が問題児呼ばわりされる謂れは全くないことに気づき、暑さによる被害妄想が入ってしまったことを深く反省する。
とある事情により一時でもわたしから離れざるを得ない状況になった貴志は、その寂しさと辛さのあまり、口から思わずそんな科白が飛び出してしまったのだろう。いや、そうとしか思えない。
貴志からのわたしへの愛が尊い――そう思って、彼を見上げたところ視線が合った。
「真珠、絶対に! 絶対に、穂高と晴夏から離れるなよ。ずっと手をつないでいろ。わかったな?」
最後にわたしの目の奥を覗き込むようにして確認した貴志。
その愛の深さに、わたしは満面の笑みで答えた。
まずは彼を安心させてやらねばならない。
「大丈夫! わたしを何歳だと思っているの?」
伊佐子の人生経験は22年だった。
お前よりもお姉さんなんだぞ、と胸を張る。
「お前は……五歳だろうが――」
貴志の回答がつれない。
しかも溜め息が、もれなく追加された。
――おかしい。どうしたのだろう?
わたしのキョトンとした表情を目にした貴志が、残念なものを見る視線を送ってくる。
おまけに最後には、何故かこの額をピシッと軽く弾かれる始末。
――解せぬ。
そう思って首を傾げたところ、貴志が自分の額に長い指を当て、眉間に皺を寄せながら瞼を閉じて頭を左右に振った。
何かを悩んでいるようだが、その理由がまったく分からない。
「……まあいい。真珠、とりあえず目を閉じろ」
その言葉にドキリと胸が跳ね上がり、わたしは静かに瞼を閉じた。
何もないと分かりつつも、目を閉じろとの言葉に思わずときめいてしまったわたしは、完全に乙女モードに突入だ。
だが、次の瞬間――シュッという音と共に、頭上から『懐かしい香り』が降ってきた。
「念の為、もう一度かけておいたぞ」
目を開けると、聖水のスプレー瓶をしまう貴志の姿。
そうだ、当たり前過ぎて忘れていたが、貴志が公衆の面前で、ウキウキワクワクなことをしてくれるわけがないのだ。
うん、知ってた――と、思いつつもガッカリするのは否めない。
いや、今は肩を落としている場合ではなかった!
何故ならば、大変な事態が起きている最中なのだから。
わたしは気持ちを切り替えて、貴志にペコリと頭を下げる。
「貴志、わたし達が恐竜展を見ている間に、未知留ちゃんのこと、よろしくお願いします」
わたしの言葉に、貴志が加奈ちゃんと瑠璃ちゃん、そして未知留ちゃんを視界に入れた。
「ああ、わかった。お前達が特別展を見ている間に、救護室に行ってくるから。ちゃんと穂高と晴夏と一緒にいてくれよ」
そう言ってわたしの頭を撫でてから、貴志は理香と咲也、それから加奈ちゃん、瑠璃ちゃん、未知留ちゃんの所へと戻って行った。
お互いに、まだ良く知らない者同士だ。
最初は貴志が間に入り、理香と咲也と三人娘の会話を取りもって欲しい――木陰にて、理香と優吾の話をした後、わたしが貴志にお願いしていたのだ。
が、しかし、先ほど、加奈ちゃん達三人娘がやってきた直後に、我々は予想外の事態に見舞われ、その計画は頓挫することとなった。
大人六人が慌てている様子がこちらまで伝わってくる。
貴志がわたしのリュックサックの中から取り出したティッシュを、加奈ちゃん経由で未知留ちゃんに渡し、それを未知留ちゃんが謝罪とお礼の言葉を口にしながら受け取っている。
「未知留ちゃん……大丈夫かな?」
わたしの呟きを兄が拾う。彼は三人娘に視線を移し、その後咲也を見つめた。
「未知留さんの血は、もう止まっているみたいだから大丈夫だとは思うけど、それよりも咲也さんが理香さんに――」
先程から理香の罵倒が、こちらまで届いてくる。
大変なお怒りモードだ。
「咲ちゃんの大馬鹿者! だから咲子で来いって言ったのに!」
理香はかなりお冠だ。
どうやら、未知留ちゃんのお母様が『綾サマ』こと咲也の大ファンだったらしく、時々追っかけに付き合わされるうちに、いつの間にか未知留ちゃん自身も綾サマのファンになっていたようなのだ。
初顔合わせの挨拶をした瞬間、未知留ちゃんが呼吸困難に陥り、更には一瞬気を失ってしまい、その後、鼻から血を流すという流血沙汰が起き、現在に至る。
ちょっと……いや――かなり、色々と大変そうだ。
念の為、貴志が未知留ちゃんに付き添って、これから救護室へ向かうことになっているのだが、加奈ちゃん及び瑠璃ちゃんも、未知留ちゃんを心配してご一緒するらしい。
わたしも心配だったけれど、とりあえず理香と咲也がわたし達ちびっ子三人に付き添い、恐竜展の見学をすることで大人同士の話し合いがついたようだ。
わたしも未知留ちゃんの付き添いを申し出たけれど「子供は楽しんでおけ」との貴志の言葉と、加奈ちゃん達からの「楽しんできてね」の申し出によって、わたし達お子さまはその厚意に甘えることと相成った。
大人六人がスマートフォンの連絡先を交換し、みんなで再度待ち合わせをする場所は常設展会場入り口と決定が下される。
お互いに万が一の事態が起きた場合は、電話かメッセージで連絡を取り合うことになったようだ。
その際、未知留ちゃんがまたしても鼻血を出してしまう。
「綾サマの番号がわたしのアドレス帳に……どうしよう……もう、死ぬ……」
フラリとよろけた未知留ちゃんを、貴志がその腕で咄嗟に抱き止め、なんとか事なきを得る。
すると今度は瑠璃ちゃんが涙目になり「
まさしく、
貴志と三人娘には申し訳ないが、折角の恐竜展だ。
兄と晴夏とわたしの三人で、特別展を心ゆくまで堪能しようと、気持ちを切り替える。
恐竜展の入り口はひとつ。
進む方向もほぼ決まっている。
万が一
伊佐子の両親と実弟・尊との思い出の詰まった国立科学博物館・恐竜展。
当初の目的は、前世の家族との思い出を胸に、尊への想いと決別するための訪問であった筈――なのだが、自分の心の在り方と、貴志への想いの急激な変化によって、そこは大分変更されてしまったような気もする。
でも、後ほど、ルーシーさんのところへうかがい、今後のわたしの人生設計と家族計画について、人類の母たる大先輩の彼女に報告しておこう、いや、しておくべきだ! と固く心に決めていたりもする。
――その時は、勿論、貴志に付き合ってもらうつもりだ。
…
「真珠、お願いだから、大人しくしていてね」
「シィ、頼むから、手を離すなよ?」
兄と晴夏によって、両手をガッチリと掴まれる。
手を繋ぐというよりは捕獲されている気分になるのは、どうしてなのか?
美少年二人に左右を挟まれ、両手に花状態のわたし。
本来であれば、大変喜ばしい気分になる筈なのに……。
――何故、連行される宇宙人のような気分になるのだろう!?
大変名状し難い気持ちになりながら、ゲートを潜ったわたし達は、特別展の入り口へと進んでいった。
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