第264話 【真珠】科博へGO!
上野駅の改札を出て、目の前を横切る道路を横断する。
国立科学博物館の開館時間までは、まだかなり余裕のある時間ではあるけれど、すでに猛暑を予感させる太陽が顔を出し始めていた。
自宅を出た頃はまだ涼しさを感じていたけれど、気温は既に高く湿度も上昇し、もったりとした空気が肌に纏わりついてくる。
上野公園の並木道に入ると、目の前には動物園の看板も見えた。
わたしはそれを横目に、目的地に向かってグングン歩いて行く。
「真珠、一人で行ったら迷子になっちゃうよ? この前一度来てはいるけど、車で来たでしょう? え? ちょっと、もう、なんで道順を知っているの? 真珠、お願い。待って!」
兄の声が、後方から届く。
いつもであれば「お願い」と言われたら、一も二もなく兄の元に馳せ参じる心積りでいるのだが――今日のわたしはひと味違う。
今だけは、いくら穂高兄さまのお願いとはいえ、聞くことはできないのだ。
恐竜展の前売りチケットを持っているとは言え、早く並ばなければならないのだ。
なぜならば、早く列に並ばないと、早く入館できないから!
ひとつ喜ばしいことをご報告しよう。
なんと! 今日に限っては、外出時のお約束――忌まわしき迷子紐を免除してもらえたのだ。
だから、常日頃の外出中、わたしの背中から貴志の手の内に伸びていた、あの
――あ!
わたしは思い出したことがあり、立ち止まる。
「うわっ!」
兄がわたしにぶつかりそうになったのか、声をあげた。
「真珠? 待ってとは言ったけど、急に立ち止まったら危ないよ。どうしたの?」
わたしは兄にクルッと向き直り、忘れてはならないことを伝える。
「お兄さま、お土産を買う時なんですが、もしわたしが忘れてしまうと困るので、お兄さまにも覚えていて欲しいことがあるのです――あ、とりあえず歩きましょうか? 限りなく全速力で!」
「え? う……うん?」
伝えなくてはいけないが、まずは目的地に向けて歩かねばならない――一刻も早く、並ぶために。
競歩のような速度で進みながら、兄と言葉を交わす。
「前回、科博に来たときに、家族四人でお揃いで買ったマグカップですが――」
「あの、お湯を注ぐと絵が化石に変化する恐竜のカップだよね?」
「そうです。それです。それにはもう一つ、恐竜ではなくてマンモスの絵柄があるんですが、それを――」
「分かった! 僕たちの弟か妹になる子の為に、お土産に買いたいんだね?」
「流石、お兄さま! 話が早くて助かります!」
…
今日の朝食の席で、母から家族に伝えられたのだが、やはり我が家には来年、家族がもう一人増えることになったのだ。
本当は昨夜の家族会議の最後に伝えようとしていたけれど、貴志の血統問題とわたしの聖水問題が大事になっていたので、母は家族への懐妊報告を遠慮したとのこと。
病院に付き添った祖母と、父は既に知っていたようだ。
けれど、祖父とわたしと兄、それから貴志には朝食の席で、その嬉しい知らせが伝えられた。
祖父は二日酔いも吹き飛ぶ勢いで大はしゃぎをし、その後頭をおさえながら「痛い、痛い」と呻いて、齋賀製薬の薬箱から鎮痛剤を取り出していた。
…
右手に、国立科学博物館が見えた。
柵の前にはまだ誰も並んでいないことに気づいたわたしは、そそくさとそこを陣取ることに決める。
一番乗りだ!
なんと清々しい!
実に晴れやかな気分である。
後から歩いてやってきた貴志と晴夏が、わたしと兄の後ろに列を作った。
「貴志、お願い。あれを出して」
背中のリュックの中に入っている虫除けスプレーを取り出してもらうと、まずは自分に振りかけ、次いで兄と晴夏にも全身くまなく噴射する。
貴志は、大人なので自分でかけてもらうよう、その後手渡した。
待ち時間の一番の敵は、なんと言っても――蚊だ。
一滴たりとも我が血をご馳走してなるものか、とスプレーを満遍なくかけたおかげか、待ち時間中、蚊への食料提供は完璧に免れたことをお伝えしておこう。
「おはよう。やっぱり、早かったのね〜」
うふふという笑い声と共に、挨拶が降ってきた。
振り仰ぐと、そこには――理香。
「へ? あれ? 早くない? 集合時間は一時間半後だったよね?」
貴志と兄からの説得により、理香と咲也、それから三人娘には後から来てもらうことになった筈である。
この待ち時間が楽しいというのに。
貴志と兄の主張は全く解せなかったが、「それを呑むならば迷子紐を免除してやる」との言葉に、即賛成したわたしだ。
「早く並ぶって聞いていたから、アンタたちだけに並ばせるわけにいかないでしょう? だから咲ちゃんと相談して、わたし達も早目に行こうって話になったのよ。咲ちゃんは……まだ来ていないみたいね」
なんだ、やはりみんな早く来て並びたかったのだな!
流石、魅力ある科博だ!
わたしはホクホク笑顔でご満悦になる。
理香は相変わらず、本日も可愛いらしかった。
色素の薄い肌や髪、それから瞳は、まるでお伽話に出てくるお姫さまのようだと感心する。
長い髪の毛先をクルクルと巻き、睫毛もカールし、パッチリお目々はバンビちゃんを彷彿とさせるのだ。
わたしはうっとりと彼女を眺めた。
なかなか反則的な可愛さなのである。
そんな理香には目もくれず。
貴志が何故か溜め息をつく。
「お前たちの時間を守るために、コイツを鎖から外して野に放つという愚挙を……、苦渋の選択をしたというのに」
「本当に……」
「…………」
貴志の言葉に続いて、兄が呟き、ハルに至っては無言の圧を放ってこちらが凍えそうだ。
愚挙とはなんだ!
わたしは単独で歩けるというこの世の自由を謳歌しているところなのに。
いや、そんなことは、もうどうでもいい。
なんとでも言ってくれたまえ!
何故ならば、今日のわたしは
「お! 早いな!」
今度は咲也の声だ。
振り返った瞬間、理香の声が反響した。
「アンタ、馬鹿なの!?」
第一声で罵倒された咲也は、ビクッと跳ね上がる。
「
と、何故かわたしたちを指差す。
ナルホド。納得だ。
攻略対象である男性陣は、かなり目立つ。
それは間違いない!――と同意したわたしは、理香の言葉に何度も力強く首肯した。
「ちょっともう! 本当に勘弁してよね。ただでさえ、咲ちゃんと貴志の噂だってあるんだから! もし、面白おかしく週刊誌にスッパ抜かれでもしたら――」
そう言って理香の目がスッと細められた。
悪女の微笑みのようで、恐ろしく妖艶だ。珍しい。
「覚悟しておいて頂戴――あ・や・さ・ま」
大蛇に睨まれた蛙のごとく――咲也の動きが止まった。
少し震えているように見えるのは、多分気のせいじゃない。
その瞬間――
ドンッと勢いよく正体不明の何かに体当たりされたわたしはフラリとよろめき、貴志が慌ててキャッチして事なきを得た。
「シィ! 大丈夫か?」
「真珠!?」
晴夏と兄も驚いて、咄嗟に手を差し伸べてくれたようで、目の前に彼等の掌が見えた。
何が起きたのか分からず、茫然とした表情で顔を上げたその先には――つい先日、都内のホテルにて目にしたばかりの、青い双眸。
「へ? ラシード? どうしてここに!?」
わたしは驚きのあまり、一昨日出会ったアルサラームの王子殿下の名前を口にした。
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