第235話 【真珠】「お前は、誰だ?」 後編

「お前は、俺の知る──俺の……チビじゃない」


 翔平から射抜くような視線を向けられ、わたしは動くことができなかった。



 猜疑さいぎに満ちた彼の眼差しを、静かに見つめ返す。


 先ほど翔平が「真珠」──と、初めてわたしの名を呼んでくれたというのに嬉しくなかった理由が、今やっと分かった。



 チビ──それは翔平が見守ってきた幼い少女の愛称。

 親しみを込めて、彼が口にしてくれた渾名だ。



 翔平の中で今日のわたしは、チビという近しい存在ではなかったのかもしれない。

 だから、彼は、涼葉とのやり取りで疑惑を抱いてから、チビと呼べずに──「真珠」と呼んだのだ。



 どこか余所余所よそよそしさのこもった響きが、胸に突き刺さる。



 ──でも、わたしは真珠だ。


 この心の中には、幼い『真珠』が間違いなくいる。


 いや──真珠の中で眠っていた伊佐子が、突然目覚めたというのが、本当は正しいのかもしれない。



 『お前は、誰だ?』


 翔平の問いに答えなくては──でも、本当のことなど言えるわけもない。

 だから、こう答えるしかない。


「わたしは、翔平の知っている──チビだよ」


 この答えを翔平は、どんな気持ちで受け取るのだろう。


 真っ直ぐで隠し事をしない翔平。

 歯にきぬ着せぬ物言いをする彼。


 この答えに対して、彼がどんな態度をとるのか──不安だった。



 もし、もう一緒に遊べないと言われたら?


 幼い『真珠』の心が、泣き出しそうになる。



 その憂慮から、心許ない表情をした途端──翔平が少し慌てた。



「ごめん。何を言っているんだろうな……俺は──久しぶりに会ったお前が突然変わっていて驚いたんだ。けど、大人がよく言うもんな──『子供の成長は早い』って……『少し会わないうちに見違えた』って……きっと……そういうこと……なんだよな?」



 わたしと目線を合わせるため、膝を抱えてしゃがみ込んだ翔平が真剣な眼差しを向ける。



 真っ直ぐな彼に対して、隠し事をする疾しさに言葉が詰まった瞬間──突然、別の声がこの会話に割り込んできた。



「そうだよ。真珠は夏休み中に自分から発音の練習をするようになって、ここまで話せるようになったんだ──子供の……小さい子の成長は特に……驚くほど、早いんだ」



 わたしは声の主の登場にホッと息をついた。


「お兄さま──どうかされたのですか?」


 兄を見上げたわたしは、質問をしながら彼のシャツをそっと掴む。

 助けてもらうような形で現れた彼に、思わず甘えてしまったのだ。


 兄は微笑みながら、頭を優しく撫でてくれた。


「翔平さんが手を洗うついでに、真珠の口も拭いたほうがいいと思って、君に伝えに来たんだ。少し唇が果汁で染まっていたから」


 兄がわたしの肩に手を置きながら、翔平と向き合う。


 何故か翔平は、せないという表情を見せた。



「なあ、お前たち──今はちゃんと……仲イイの?」



 翔平が人差し指と親指で顎を包みながら、兄に質問した。


「今は? それはどういう?」


 兄が不思議そうに首を傾げ、わたしはハッと息を呑む。



 これは──マズイ!



 『真珠』が少しだけ愚痴った内容を、翔平が覚えていたのだ。


 兄がわたしの行く末を心配して窘める言葉を、お小言と嫌い。

 習い事や勉強で遊んでもらえないことに対して抱いた不満を、翔平に話したことがある。



 もしかしたら、翔平のなかで、月ヶ瀬家の兄は妹に興味を示さない──『仲の悪い兄妹の図』が出来上がっていたのかもしれない。



 たしかに兄のことは、少しだけ苦手だった──主に、注意を受けるとき限定で。



 でも、ちゃんと好きな気持ちもあった。


 そして、今は──大好き以外の言葉はない。


 誰よりも大切な、たった一人の兄なのだ。



 これ以上翔平をしゃべらせてはイカンと気づいたわたしは、すかさず──兄妹で仲良しなんだよアピールするべく、頭を縦に何度も振る。それもかなり激しく。


 それだけでは飽き足らず、疾風はやての如き速さで翔平の口を塞ごうと、わたしは彼目がけて両手を伸ばした──が、兄に肩を掴まれていたため、行動が一歩遅く、翔平は流れるように言葉を紡いでしまう。



「いや──だってこいつが……『お兄さまは遊んでくれない』とか『ちょっとこわい』って言ってたから、てっきり仲が悪いのかと思って、心配してたんだ」



 止める間もなく、兄の前ですべてをサラリと暴露しおった──そして、翔平に悪気がないのも理解している。

 わたしを心配するが故に、滅多に会うことのない兄に、妹をどう思っているのかと直接確認したかったのだろう。



 サッと飛びかかったわたしを難なく抱きとめた翔平が、目を丸くする。



「うわっ チビ! 何するんだ! ビックリするだろう!?」



 捕獲されたわたしの両脇の下に手を挿し入れた翔平は、目の前でこの身をプラーンと持ち上げた。


 わたしは翔平の目を一度見ると、今度は兄がどんな表情をしているのか気になり、ほぼ同時に首をひねって兄の顔を確認しようとする──かなり挙動不審な状態だ。



「そういう時は、やっぱり、ちゃんと『チビ』に戻るんだな……良かった」



 翔平はそう呟くと、安心したように笑い出す。




「前よりも笑うようになったし、兄妹で仲がイイのも見ていて分かった。それに、晴夏と……スズだっけ? 友達もできたようだし──もう、お前は、独りぼっちじゃないんだな」



 翔平はわたしを床に降ろすと、兄のほうへ行けと顎で指示する。



「お前の『お兄さま』がショックを受けているみたいだから、早く慰めてやれ。これって、チビが『お兄さま』から大切にされてるってことだろ?」



 兄を見上げると、なんとも言えない表情が目に入った──というより、目を見開いたまま思考停止状態のようだ。



 翔平は、「仲良くて安心した。あとは兄妹二人でな」と告げ、そのまま先に一人で居間へ戻ろうとする。


 けれど、彼は何を思い出したのか、去る間際に「あ、そうだ!」と言ってこちらを振り返った。



「チビ、さっきのお前の質問だけどな、『約束』のことは勿論覚えてるぞ──でも、もう、きっと……俺は御役御免おやくごめんだろ? あのイケメンの貴志さんだっけ? よく分かんねーけど、あの人がお前のこと、守ってくれるんだよな」


 わたしはコクリと頷いた。


 翔平はわたしの返答に満足したのか、「先に戻ってるからな」と言って再び背を向ける。

 わたしは翔平の上着を咄嗟に掴み、彼を引きとめた。



「翔平! 覚えていてくれて、ありがとう。それから、約束を守れなくて、ごめんなさい」



 翔平が身体をよじって、わたしの頭を撫でる。



「あの約束は……まあ、小さい女の子の『コンニチハ』みたいな挨拶と同じようなもんなんだろ?」


「へ?」


 いや、そうとは限らんぞ、と思ったが、翔平の次の言葉でわたしは笑い出すことになる。



「道場に来てるチビっ子は、揃って挨拶みたいに言うからな。『翔平おにーちゃんのお嫁さんに』って、何故か上から目線でさ。俺、そんな、結婚できない男に見えるわけ? って言うか、何人もの女と結婚できねーし」



 翔平、お前もかなりモテモテ君なのだな──でも、納得だ。この面倒見のよさと嘘をつかない一本気な性格は、小さい女の子に絶大な人気があるのだろう。


 たしかに竹刀しないを振る姿は凛々しかったし、今日初めて認識したことだが、顔立ちも良い。



「ほら、俺のことはいいからさ。早くお前のおにーさまを慰めてやれよ。先に居間に戻ってるからな」



 翔平の背中を見送っていると、角を曲がる直前でこちらに視線を向けた彼が清々しい笑顔を見せた。


 それにつられて、わたしも満面の笑みで手を振る。



「チビ──そうやって、いつも笑ってたほうがいいぞ!」



 そう言うと、彼も手を振り返し、廊下の角に消えて行った。



          …



 わたしは兄と話をするべく、固まっている彼の表情を見上げた。

 誤解されているのならば、解かなくてはならない。



 それは、兄からあんなことを言われる事態に見舞われるとは思いもしなかった──三分前のこと。





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