第236話 【真珠】『兄』と 青天の霹靂


 わたしは兄と話をするべく、固まっている彼の表情を見上げた。誤解されているのならば、解かなくてはならない。


 それは、兄にあんなことを言われるとは、思いも寄らなかった――三分前のこと。




          …




「お兄さま……」


 わたしは兄に、おそるおそる声をかけた。

 声に覇気がないのは、気まずさから。


 わたしが翔平に愚痴ったのは、謂わば兄に対する悪口。


 いや、わたしではあるのだが、正確にはわたし自身が言ったのではなくて――でも、わたしが語った覚えがある、という非常にややこしい状況及び心境だ。

 自分でも、複雑すぎて訳が分からなくなる。


 その記憶のあるわたしが、誠心誠意兄に対して謝らねばならない。


 けれど兄からは何の返答もない。


「お兄……さま?」


 勇気を振り絞り、再度わたしが呼びかけると、我に返った兄がその口元を右手で覆った。

 相当なショックを受けての動きなのかもしれない。



 一息で、謝罪の言葉を口にのせようとしたところ――


「ごめん……ごめんね――真珠」


 わたしは兄から突如抱きしめられ、謝罪を受けることとなった。



 理解に苦しみ、どうしてよいのか判断がつかない。

 わたしは、とりあえず兄の背中に腕をまわすことにした。


 何故、わたしはこんなにも謝られているのだろう。

 謝罪すべきは、わたしの方だというのに。



「寂しかったよね――僕がいない間、君はいつも一人でいたんだもの。僕は自分のことだけで手一杯で、君の心まで気づいてあげられなかった。本当は、兄である僕が、君の心を守ってあげなくちゃいけなかったのに――」



 わたしの身体を腕の中から解放した彼は、「苦しかったかな? ごめんね」と恥ずかしそうに告げると、目線を合わせるように膝を折った。



「君がひとりでいる時間、いったい何をしていていたんだろう――そう疑問に思ったのは、まだつい最近のことなんだ。だけど――翔平さんが、君のことを見守っていたことを、今日初めて知ることができて……良かった」



 兄は俯くと、少しだけ悔しそうな表情を見せる。



「翔平さんは、君を大切に扱ってくれていたんだね。それに……僕のことも、気にかけてくれた」



 翔平が、兄に対して「心配だぜ」と言った、笑顔の件のことを言っているのだろうか。

 兄はそれに対して、何か思うところがあったのだろう。



「正直に言うとね、まるで本物の兄妹のように君と仲良くする翔平さんを見て、僕は『実の兄』として嫉妬をしていたんだ。君の寂しい気持ちを、家族のかわりに取り除いてくれた恩人に、ヤキモチを焼いてしまうなんて、僕は本当に……兄失格だ」



 兄失格――そう呟いた彼の声には、色々な感情が宿っているような気がした。


 何故、そう思ったのかは分からない。

 けれど、兄も悩んだり、苦しんだりしたのかもしれない。


 ――その理由は、分からないけれど。



 わたしは首を横に振り、兄を見つめた。


 ――失格なんかじゃない。


 正しい道に導こうと苦言を呈することは、なかなかできるものではない。


 面倒な衝突を避け、甘言を弄することは簡単だ――でも、道を正すことには労力がいる。


 いとわれるのを覚悟して告げる言葉には、発する側の深い想いが込められている。

 けれど、受け取める側にそれを理解する心の力量がなければ、煙たがられるだけ。

 関係に亀裂が入ってしまう可能性だってある。それは家族であれば尚更に。



 兄はそれでも、『真珠』を導こうと努力してくれたのだ。

 『真珠』には幼すぎて気づけなかった彼の想いも、今のわたしには受け止めることができる。



 わたしは兄の手を握り、微笑んだ。

 妹への深い愛情が伝わり、とても嬉しかった。



 そんな兄を持てたことを、わたしは誇りに思う。



「お兄さまは、今までも……これからも――わたしの、自慢のお兄さまです」



 わたしの言葉に、兄の動きが止まった。

 その様子を不思議に思いながらも、疑問は抱かずに言葉をつづける。



「少し前のわたしには分からなかったけれど、今なら理解できます――お兄さまが忙しくてわたしと遊べなかった理由も、わたしの言動を注意してくれた意味も」


 真珠が嫌がった忠告のたぐいは、妹の将来を心配した兄の、誠実な思い遣りから生じたものだ。


 兄は、ただ静かにわたしの話に耳を傾けている。



「お兄さまから、こんなにも大切に想われていたのに、そのことに気づけず、翔平に愚痴をこぼしていたわたしが……恥ずかしい」



 それが今の正直な気持ちだ。


 兄がわたしの頭を撫で、この双眸を覗き込む。



「僕は……ずっと、君にとって『本当の兄』でいられた? こんな僕でも、これからも『自慢の兄』だと……そう思ってくれる?」



 不安そうな表情をする彼に向かって、わたしは満面の笑みを向ける。



「勿論です! それに、お兄さまが、兄失格というなら――わたしは、妹失格です」


 本当に、妹失格だと思う。

 自宅外で、こんなに素晴らしい兄への不平不満を口にするなんて、恥知らずもいいところだ。



「君は本当に――変わったね。成長したと言うのかな……いや、まるで本当に別の人間が入り込んだみたいだ。……」



 心底ホッとした様子を見せた兄。


 その態度と、彼が口にのせた言葉に、わたしの動きが完全に止まった。



 わたしが硬化したことに気づいた兄が、優しく――いたわるように微笑む。




「僕も、貴志さんと同じように、君を守る人間でありたいんだ」




 そう言って繋いでいた掌を離した兄は、わたしの両肩にその手を置く。




「何度考えても、何かがおかしいんだ。君の変わりようと、あの演奏技術――僕は、頭がおかしくなってしまったのかもしれないと、それこそ何度も思った。そんなこと、現実ではありえないと……そう、幾度となく結論が出ているのに……否定しても、否定しても――でも、もしかして……、と疑問が生まれるんだ」




 兄はわたしの頬を撫で、この瞳を見つめた。



「起点は、いつも……あの日の――あの舞台の演奏」



 兄は、『伊佐子』が『真珠』の中で目覚めた瞬間――『無題ーfor Isakoー』を弾いたコンクールのことを言っている?



 いや、これは予想ではない――確信だ。

 彼は、間違いなく、あの時のことを言っている。


 

 動揺を極力悟らせないよう努力はするけれど、身体の震えは気づかれている。


 心臓が早鐘を打ち、口内が乾き、痺れたような感覚が舌を襲った。


 言葉が、何も出てこない。



 兄は――月ヶ瀬穂高は、わたしの身体を抱き寄せ、その腕の力を強くした。


 まるで慈愛に包まれるかのような錯覚をおぼえ、その優しさに戸惑う。



 彼は、わたしの耳元で囁いた。



「貴志さんのように、僕が……君に認められた時――その時は、本当の意味で君を守りたい。とても、大切なんだ――誰よりも、一番近くで理解したい……君は僕の、大切な『妹』だから……」




 わたしは黙って、彼の次の言葉を待った。


 「何を言っているの」と笑い飛ばし、冗談として扱うことも、もしかしたらできたのかもしれない。


 けれど、わたしの本能が告げる――否定をしても無駄だ――と。



 あまりに突然のことすぎて、わたしは、ただ呼吸をするだけの人形と化していたような気がする。


 どう反応するのが正解なのか、まったく分からない。



 けれど――兄は、何かに気づいている。




 先ほど、翔平との話に絶妙なタイミングで割り込んできたのは、偶然ではなく――これ以上の追及を、彼にさせないため。



 兄はわたしの窮地を救い出してくれたのだと、今になってやっと理解できた。




「穂高兄さま……」



 わたしは震える声で、彼を呼ぶ。




「警戒しないで、僕は誰よりも君の味方のつもりだよ。いつか……君が僕を認めてくれた時でいい。僕を本当の意味で、君の『兄』と認めてほしいんだ。真珠……いや……『伊佐子』さん?」




 青天の霹靂とは、このことを言うのかもしれない。






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