第234話 【真珠】「お前は、誰だ?」 前編


 母と祖母は皆に挨拶をしてから病院へ向かったが、いまだに居間の中は涼葉すずははなをすする音が響いている。


「シィちゃんは、ハルちゃんのお嫁さんなのに」

「わたしの未来の義妹いもうとの筈だったんだよ」


 涼葉と飛鳥あすかが同時に嘆き、わたしは乾いた笑いをのせた。


「紅子が話してくれた『王子さま求婚事件』――ちょっと語弊ごへいがあるのは気になるんだけど――それが原因で、貴志が助けてくれることになったの。だから、ほとぼりが冷めたら解消される予定なんだ。それ以外にも大人の思惑が色々と絡んではいるみたいだけど……」


 そう伝えてから貴志を見ると、彼は静かにうなずく。


「だからね、婚約とは言っても形式上のことで……あの……そんなに驚かないで」


 話を静かに聞いていた涼葉が泣き止み、晴夏はるかの元に歩み寄る。


「難しいお話は分からないけど、ハルちゃん、お願い。シィちゃんをスズのお姉さんにして! 早く大きいお兄さんなって、あの人に負けないで」


 そう言って涼葉が貴志を視界に入れる。

 敵対心丸出しだ。


 紅子と晴夏が涼葉をたしなめるが、彼女は珍しく二人の言うことをきかず、ずっと貴志をにらみつけている。



「だって、あの人の演奏『天球』で聴いたもん! あの音は、シィちゃんに向かって弾いてたもん! スズ、やっとその理由が分かったんだもん!」



 星川リゾートのチャペル『天球館』で、貴志がわたしに捧げてくれた演奏のことを涼葉は言っているのだろう。



「あの演奏でシィちゃんをいっぱい泣かせて、きっとシィちゃんを困らせたんだ」



 貴志は驚いた表情を見せ、涼葉を観察している。



 涼葉の抱いた誤解を解かないままだと、貴志が悪者になってしまうと感じたわたしは、ゆっくりと諭すように説明する。



「スズちゃん、貴志はわたしを困らせたんじゃないよ。貴志が贈ってくれた演奏が……とても……とても嬉しかったの」



 涼葉は首を傾げて、不思議そうな表情を見せた。



「でも、シィちゃんはいっぱい泣いて、立ち上がれないくらい泣いてた。スズが泣くのは、嫌な気持ちの時だけだよ?」



 いつのことだったろう――嬉しくても涙が出るのだと知ったのは。

 かなり成長した時に、嬉し涙の存在を知って、驚いた伊佐子の記憶がある。



「あのね。スズちゃん、嬉しくてもね、涙は出るんだよ。それは、とても幸せな涙なの」



 涼葉は意味が分からないという表情で紅子を見上げた。


「嬉しくても……泣くの? どうして?」


 紅子は涼葉の頭を撫でながら「お前も、もう少し大きくなったら分かる」と伝える。

 少し不服そうな様子を見せた涼葉だが、彼女はコクリと頷くと貴志の元へトコトコと走っていく。



 何をするのだろう――そう思って、様子をうかがっていたところ、涼葉は貴志に向かってペコリと頭を下げた。



「お兄さんのこと――『あの人』って言って、ごめんなさい。シィちゃんを困らせた悪い人だと思ったの」



 貴志は涼葉に対して好ましい者をみるような微笑を浮かべる。



「でもね、お兄さん! シィちゃんは、ハルちゃんのものだから、あとでちゃんと返してね!」



 涼葉は言いたいことを伝えると満足したのか、笑顔で紅子の元に戻り「抱っこ」と言って、手を伸ばす。


「なんだ? もう眠くなったのか?」


 紅子は涼葉を抱き上げると、貴志に向かって「ちょっと和室を借りるぞ」と許可をとって出て行った。


 貴志は木嶋さんのところへ向かうのだろう。空になった茶器を手に、席を立つ。

 キッチンから届く会話で、どうやら和室にいる紅子の元へ、肌掛けにするためのタオルケットを準備してほしいと、木嶋さんにお願いしているようだ。



 飛鳥が貴志の消えていったキッチンへの入り口に視線を定めたまま、顔を赤らめて動かないことに気づく。


 わたしの視線に勘付かんづいた彼女は、わたしの目を見つめるやいなや両肩をガシッと掴んできた。目が爛々らんらんと輝き、だいぶ興奮気味だ。



「真珠! なんだかよくわからないけど、わたし、貴志さんの笑顔を初めて見た気がする! 尊い!」



 そしてすかさず、彼女は翔平の脇腹を肘を突っつく。



「翔平、負けるなよ。貴志さんには遠く及ばないが、お前もなかなか良い男だ! 姉であるわたしが保証する。とりあえず、今は勉学に励め。しばらく会わない間に突然賢くなった真珠に相手にしてもらえるよう――」



 翔平が息を呑み、飛鳥の科白セリフを皆まで言わせず、大きな声で止めた。



「飛鳥! うるさい」



 驚いた飛鳥が、眉間に皺を寄せる。



「どうしたの? そんな声出しちゃって。珍しい――なるほど、真珠を貴志さんに奪われそうで焦っているってわけか。器が小さい男はお呼びでないぞ? んん?」



 飛鳥に茶化された翔平が「そんなんじゃねーよ」と溜め息をつく。



「おい、――もう、巨峰は満足したか?」



 突然、翔平から話を振られ、わたしはコクリと頷いた。

 いま、翔平から、初めて名前で呼ばれた気がする。



 でも、何故だろう――その響きは、あまり嬉しいものではなかった。



「そうか。果汁で手がベタベタしたから洗いたい。案内してくれ」



 先程から翔平の手指を拭き続けた布巾は、既に巨峰の果汁によって紫色に染まっている。


 わたしはピョコンと飛び跳ねるようにして膝の上から降り、彼を洗面所へ案内した。





 翔平が手を洗い、水滴を拭うためのタオルを手渡す。


 彼が無言で手を拭いている間に、わたしは意を決して口を開く。

 皆の前ではなく、二人でいる時に、この話をできるのが幸いだ。



「翔平――あのね。夏休み前に指切りした約束、覚えてる?」



 わたしは背の高い翔平を見上げ、その双眸をジッと見つめた。



 翔平は、何故か驚いた表情をみせ、少し戸惑っているようだ。



 この表情は――どういうことなのだろう。


 翔平は、針千本の約束を忘れてしまったのだろうか?



 約束を重んじる仁義の男が、忘れてしまうような軽い約束ではなかった筈だ。



 彼の言葉を待っていたけれど、返ってきたのはわたしの質問に対する答えではなく――疑問の声。



 不信感を伴った彼の声音が、わたしに降り注ぐ。



「いったい――お前は、誰だ?」



 常日頃、彼が真珠に向けていた、見守る兄のような視線ではない。

 どこか警戒するような、猜疑心に満ちた感情が彼の眼差しから伝わった。



 わたしの喉がヒュッと音を立て、心音は早鐘のように鳴り響く。



 翔平は勘がいい――けれど、ここで問われるとは思わなかった。




『翔平はものすごく勘がいい。彼の知る、子供の真珠の対応でいかないと色々と不都合が生じる』



 貴志に伝えた言葉を、今になって思い出す。



 ――完全に失敗した。



 紅子や晴夏――鷹司一家と過ごした星川リゾートでの対応が、涼葉を説得する時に出てしまったのだ。



 翔平の知る、夏休み前の『真珠』は、あんな喋り方をしない。



 舌っ足らずで、サ行も上手く発音できず、あまり多くを喋らない少女だった。

 夏休み中に練習をして、ここまでの滑舌を手に入れたことを思い出す。



「お前は、俺の知る――俺の……チビじゃない」



 翔平から射抜くような視線を向けられ、わたしは動くことができなかった。





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