第233話 【真珠】本気の笑顔 と 男の使命


「おい、なんかチビが怯えてるぞ? お前の、その作り物みたいな笑顔が、怖いんじゃねーの?」



 翔平、おぬし……天使で王子な我が兄上様になんということを――と思っていたところ、兄の視線が剣呑けんのんな光を帯びたような気がした。



 けれど、それは勘違いだったのか、兄の表情は天使のような笑顔に変わる。



 穂高兄さまの目がキラッと光ったのは棘のある眼差しではなく、この天使のような愛くるしい笑顔が生まれる一瞬を切り取った貴重な映像だったのかもしれない――そうとしか、説明ができなかった。



「何のことかな? 真珠がご迷惑をおかけしているようだから、実の兄である僕が彼女の面倒をみることに何か問題でも?」



 翔平に向けられていた兄の視線がわたしに移動し、彼は再度膝を叩いた。



 ここは我が兄上様を立てることを考えて、あちらに移動した方がよいのかもしれない――そう考え始めたところ、翔平が新たな巨峰をわたしの口に放り込み、立ち上がることができなくなってしまう。



「いや、別にコイツの面倒をみるのは日課みたいなもんだったし、迷惑だとは思ってねーから気にすんな。つーかお前さ、本気で笑ったことあんの? そっちのほうが心配になるんだけど……」



 翔平も飛鳥と血を分けた姉弟――やはり空気を読まずに、思ったことを悪気なく口にのせる。

 良く言えば、とても素直で、裏表のない性格なのだろう。



 翔平の科白に兄の動きが止まった。



「本気で……笑ったこと?」



「そうそう。腹の底から楽しくて、転げまわるように笑ったこと、なさそうだなって、さっきの表情見て思ったわけ。そんなんじゃ、チビも怖がるぜ」



 兄が眉間に皺を寄せ、少しだけ首を傾げる。

 翔平の言葉の意味を理解できていないようだ。



 でも、翔平の言葉には、一理あるかもしれない。



 今では過去形になってはいるが、両親不仲な家庭で育った彼は、もしかしたら……本当に心から笑ったことがないのかもしれない。


 いびつさを抱える家庭――犠牲になるのはいつも、自分の心を守る手段を知らない子供だ。


 それは『真珠』にしても同じこと。


 そんな環境に身を置く真珠の表情は、かなり乏しかったのだろう。心配した翔平が、時々気にかけて構ってくれるようになり、翔平の前では楽しい時に本当の笑顔を見せるようになった――そんなことを思い出す。



 翔平は、そういった心の機微にも目端めはしがきくのか、よく気づく。



 剣道道場でも小さな子供達の世話を焼いているようで、子供の扱いにも慣れているのだろう。

 彼の言葉の端々に温かさを感じ、『真珠』も少しずつではあったが心を許し、徐々に彼を慕っていったのだ。



「お前の顔を見ても 何を考えているのか心が読めないんだよ。男同士の付き合いでも大事なんだぜ、意思の疎通ってやつはさ――飛鳥」


 突然、翔平が飛鳥に声をかけた。


 紅子と一緒に様子をうかがっていた飛鳥が「なに? どしたの?」と翔平に訊ねる。



「なあ、今夜の道場の子供向け納涼花火会に、こいつらも呼んでいい? 男同士の正しい遊びを伝授だ!」



 翔平の問いに、飛鳥は笑顔で答える。


「貴志さんが来てくれたらお祖父ちゃんも喜ぶと思うから、実はあとでみんなに声をかけようと思ってたんだ。スイカ割り用の西瓜スイカも、花火も昨日大量に準備したから問題ないよ」


 飛鳥の言葉に翔平が、二カッと笑う。


「よし! 決まりだ。穂高――つったよな? あとそっちの……晴夏、だっけ? お前も一緒に来いよ。いい子ちゃんのままだと、将来苦労するぜ。『心の友』を持つことも、大事な『男の使命』だ」


 ブフッと噴き出して笑ったのは、飛鳥。


「心の友……お前はジャイアンか!」


 すかさず突っ込んではいたが、飛鳥は翔平の頭を撫でて可愛がる――が、翔平は「やめろよ。触んな」と釣れない対応だ。



「穂高クンと晴夏クン、都合が良かったらおいでよ。悪ガキもいるけど、根はいい子達ばっかりだし、同年代の子と遊ぶのも、たまにはいいんじゃない? それに、君たちが来たら、道場の女子たちが喜びそうだ」



 すかさず、わたしも挙手をする。



「はい! わたしも行く! スイカ割り! 花火! お兄さま、ハル、このお誘い、是非とも受けましょう!」



 日本の夏の風物詩だ。

 これは経験せねばなるまい。



 伊佐子の子供時代、日本に住む祖父母宅への一時帰国の時しか、花火で遊ぶことができなかった――謂わば、憧れの遊び。

 当時居住していた地域は、自宅での花火が法律で禁止されていたため、まさしく禁断の遊びだったのだ。


 ものすごく花火がしたい。

 そしてスイカ割りもやりたい。



 日本語補習校の年度始めの親睦会でスイカ割りをして遊んだことが一度だけあったが、あの爽快さは未だに忘れられない。

 割ったスイカを皆で分け合って食べるのも、楽しかった記憶のひとつだ。



 それに――物わかりの良すぎる、この年齢にしては恐ろしく大人びた兄と晴夏――彼らが同年代の男の子と一緒に遊ぶのも、良い経験になるのではないか、と老婆心ながらも思ったのだ。



 わたしは翔平の膝の上から貴志に視線を移す。


「貴志は行けそう? わたし、行ってもいい?」


 貴志にも念のため確認をとらなくてはいけない。

 今夜、彼は家族間で、わたしに関する話し合いがあると言っていたはずだ。


「顔を出すくらいなら大丈夫だ」


 貴志の答えに、飛鳥が「やった!」と喜び、翔平も「決まりだな」と言って兄と晴夏に笑顔を向ける。


「貴志、ありがとう!」


 わたしは喜びのあまり手足をギュっと縮めて、嬉しさを身体全体で表現した。



「僕は……」


 晴夏がそう呟き、戸惑ったように紅子に顔を向けると、それを察知した貴志が紅子に助言する。



「紅、晴夏が望むなら俺が連れて行く。明日、真珠と穂高を連れて理香と咲也と一緒に科博に行くんだが、晴夏の都合が良ければそっちも一緒にどうだ? 問題なければ一晩預かるが?」



 晴夏は更に困惑しているようだ。



「あら? お泊り会? いいわね」



 突然、美沙子ママの声が居間に響いた。



 飛鳥が起立し、「お邪魔しています」とお辞儀をする。


 母は木嶋さんから巨峰をいただいたことを耳にしていたのか「結構なものを頂いたようで、ありがとう。ご家族によろしく伝えてね」と笑顔で挨拶を返した。



「紅子? 良かったらハルくんを預かるわよ。服や着替えは穂高のものがあるし。スズちゃんも良かったらどうぞ?」


 母の言葉に涼葉が表情を明るくする――が、紅子の言葉によって、涼葉はガックリと肩を落とすことになる。


「ハルは兎も角、スズは無理だ。未だに時々夜泣きをするからな。スズは次の機会に頼む。ハルは、どうしたい? 自分で判断しろ」


 晴夏は安堵の表情を見せると、美沙子ママに向かって深々とお辞儀をした。


「ありがとうございます。お世話になります」



 母は笑顔を見せると、これから祖母と共に外出する旨を皆に告げた――そう言えば、産婦人科に行くのだっけ。



 あとから祖母も居間に現れ、外出前に確認したいことがあると貴志に質問をしはじめた。



「貴志――さっきお父さんとお話をして、結納ゆいのうの件も今夜話をすることになったから。フライトの日程をもう一度教えてちょうだい。後で詳細をメールに添付してくれるかしら?」



 結納――父が張り切っていたそうだが、結局有耶無耶になったと聞いた気がする。


 母から聞いたところによると、エルがわたしに与えたものは相当稀有な『証』。

 両親と両祖父母が、その儀式に対抗する手段として、正式な結納を取り交わすことに決めたのかもしれない。



 「スズも一緒に泊まりたかった」と、泣きながらぐする涼葉を宥めていた紅子が、右手の拳を左の掌にポンッと叩きつけ「お! 大切なことを言うのを完全に忘れていたな」と言って、わたしと貴志双方に視線を送る。



「貴志、真珠――婚約おめでとう。色々と楽しいことになりそうだな!」



 紅子はそう言うと、豪快かつ物凄く楽しそうに笑った――が、それと同時に、再び居間に混沌が訪れる。




「婚約って? 誰と……誰が?」と、困惑した様子の晴夏。


「え? どういうこと? 真珠? 貴志さん?」と、素っ頓狂な声の飛鳥。


「なんだかよくわからんが、めでたいな」と、訳知り顔で頷く翔平。

 いや、お前、絶対分かってないだろう――と、突っ込みを入れそうになるが、必死で堪える。



 三人から、三者三様の反応が返ってきた。



 涼葉が泣きべそをかきながら「だから、さっきスズが言ったのにーーーっ」と、更に号泣を深める。



「単なる救済措置――ですよね? 貴志さん」



 兄が溜め息をつきながら、けれど、確認するように貴志を見つめた。



 その問いに対して、


「建前上はな」


 と、答えた貴志は、グラスの中に残る冷茶を飲み干した。




【後書き】

夜九時に更新予定です。

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