第207話 【真珠】『白』から『黒』へ
玄関扉を開けると、恭しく胸に手を当てたエルに迎えられた。
金糸と銀糸で刺繍の施された黒衣の神官装束は、高貴なエルの佇まいに花を添える。
まるで『月の化身』そのもののようだ。
先ほど、モニターに映った彼は、とてもにこやかな表情をしていた。
けれど、面を上げ、わたしを目にした瞬間、その表情が唐突に変わる。そこに見えたのは困惑の光。
「真珠……この『色』は、いったい……いや……『欲』か?」
こちらを見つめて動かなくなったエルが、戸惑いの相好で意味の分からないことを呟いた。
「エル?」
彼の態度を訝しく思いながら、わたしはその瞳を見つめる。
「いや……何でもない。真珠、少しだけ私に付き合ってもらいたい。貴志には――私と共に屋上へ行くと――一言、書き置きを頼む 」
エルの願いを聞き入れるべきかどうか迷ったけれど、わたしはそれを断る選択をとる。
「ごめんなさい。行けないよ。勝手に部屋から出るわけにはいかない。それに、どうして屋上?」
わたしがこの部屋にいないことに気づいたら、彼はきっと心配するだろう。
貴志に一言もなく、部屋の外に出ることはできない。
「月が出たら――」
エルが、何事かを呟いた。
けれど、その声はこの耳に届かず、わたしは問い返す。
「え? 何か言った?」
エルは、静かに語る。
「もしも――天空に月が現れた時は、真珠を連れ出す、と貴志に許可は取ってある。
お前が眠っている間――地下鉄の中で、詳細は伝えた……『儀式』を執り行うために」
そういえば、貴志に怪我をさせてしまったことですっかり失念していたが、いつエルたちと別れたのだろう。
「それから、ひとつ質問だ。貴志の怪我の具合は、どうだ?」
地下鉄の旅から戻り、この意識が覚醒したのは部屋に戻ってから暫くしてからだった。
わたしが貴志の首に噛みつき怪我を負わせたのは、ホテルに到着し、車から降ろされた時。
その時点で、エルとラシードはわたし達と一緒にいたはずだ。
貴志の傷を、エルはその目で確認しなかったのだろうか。
そう思いながらも、貴志から聞いた噛み痕の状態を伝える。ベッドの中で首の傷が心配になり、本人に確認をとっていたのだ。
「貴志が寝入る前に『血も完全に止まったからもう大丈夫だ』と言っていたよ」
その言葉にエルがホッとしたような表情を見せ「ならば、明朝であれば、おそらく会うことができるな」と独り言ちる。
「心配なら、今、起こす? そうしたら、わたしも貴志に断ってから屋上に――」
部屋の中に戻って、貴志に起きてもらおうと踵を返そうとしたけれど、その腕をエルに取られ――遮られた。
「エル?」
「すまない、真珠。流血は穢れ――わたしは今宵、貴志の傍に近づくことができない。
これから行う『儀式』は、特に禊を必要とする。だから、貴志が目の前で怪我を負っても、私はどうすることもできかなかった……近寄ることさえ適わず、あの場で別れたのだ」
禊を――身を清めることが必要になる程の儀式とは?
『月が出たら』と、彼は言っていた。
それはいったい、どんな儀式なのだろう。
わたしが戸惑っていることを感じ取ったエルは、少しの情報を開示する。
「秘匿された……教皇のみが扱うことを許される――命を預けるに等しい……神聖な儀式だ」
エルは真摯な面持ちで、それだけを告げた。
彼の様子に嘘は見えず、おそらく貴志にも事前に断りをいれているのだろう。
そうでなければ、書き置きしてほしい、などとは頼まないはずだ。
何故か、このエルの願いは聞き入れなくてはいけないような気がして、熟考した後に承諾する。
「貴志に、会えない理由はわかった――少し待っていてくれる?」
エルを廊下に残し、わたしは準備をするため、一旦部屋に戻った。
…
廊下に足を踏み出してすぐ、エルはその身に纏っていたドゥパッタに似た長いショールを外す。
「真珠、これを」
彼はそれだけ言うと、黒い薄絹のようなそれを、わたしの頭からすっぽりと被せる。
貴志から贈られた寝間着――白いドレスは、あっという間にエルの黒衣に塗り替えられた。
そういえば、貴志の持ち物も黒が多い。
この胸に宿る人物に思いを馳せたところ、昼間、彼から教えてもらったアルサラームの禁色のことが脳裏をよぎった。
黒――王族と高位神官のみに許された、太陽神シェ・ラを示す色だ。
わたしは焦りながら、黒衣の着用を固辞しようとした。
「え? 駄目だよ。黒は、特別な色なんでしょう?」
ショールを慌てて外そうとしたけれど、エルが目の前に跪き、その手でわたしの手を包んで制止する。
「――今のその姿を、他の男の目に触れさせるわけにはいかない。お前の身体には消化しきれていない『欲』が溜まっている。自分の身を守りたいと思うのならば、念の為だが――その布で身を隠してくれ。貴志の為にも……私の為にも。頼む」
懇願に近い、エルの切実な願い。
そう感じたわたしは、困惑しつつも、そのまま黙って黒の衣を身に纏った。
わたしが了承したと判断したエルは、音もなく立ち上がり、先に歩き出す。
彼は数歩進むと振り返り、ついて来いと、こちらに手を伸ばす。
わたしは促されるまま、彼の後を追うようにして屋上へ向かった――時折、後ろを気にしながら。
【後書き】
次話、19:30更新です。
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