第208話 【真珠】『色』と『欲』
時々、後ろを振り返りつつ、わたしは前を進むエルを追いかける――彼の語る言葉に耳を傾けながら。
「大人の魂と子供の器。その均衡の危うさは、男を惑わす。お前が生み出す不可思議な色香が、自らの『欠け』を補おうとする男を誘うんだ。わたしの聖布で身を隠させたのは、今夜のお前は特にそれが顕著だから――何かが起きる予感はあった。だからお前たち二人に忠告もした。
……貴志と、
エルはこちらに視線を向けることなく、前へ前へと歩いていく。
彼が貸してくれた黒の聖布を頭から被ったわたしは、その言葉を聞き、咄嗟に口元を抑えた。
貴志と過ごした時間――結局、彼は唇で肌に触れてはくれなかった。
焦らされるたびに、燻る熱が身体を支配した。
その慰めかたも分からずに、眠る彼の隣で身体の熱を持て余し、寝付けずに苦労したのだ。
「何もなかった――何もなかったから、身体に熱が溜まっているんだと思う」
問いに対する答えを小さな声で呟くと、エルは突然立ち止まった。
わたしもそれに合わせて歩みを止め、彼を見上げる。
エルは振り返ると、驚いた表情を見せた。
「昼間、あれだけ教えろと恥ずかしげもなく
貴志と交わした会話で理解できたのだけれど、その内容を伝えることは
あれは二人だけの秘密の話だ。
誰にも伝えることはないし、わたしにとっては、貴志の心を理解できた宝物のような時間。
この件に関してだけは、問われても答える気はなかった。
エルは真剣な眼差しをわたしに向ける。
「いいか? 真珠。ひとつ忠告しておく。今後、お前の『欲』が消化しきれていない状態で、酒気を帯びた男には近づくな。
酒精は神とつながる聖なる水だ――それはお前の真実の姿を暴き、男を惑わせる。お前の心と身体を
お酒?
エルの語った内容は、漠然としていて、完全には理解できない。
でも――
「貴志は今夜、お酒を……ワインを一杯だけ飲んでいたよ? それでも、何も……」
何も無かった――そう反論しようとして、ハッと息を呑む。
いや、違う。
いつもだったら貴志は『触れたい』などと言わない。
「貴志は飲んでいたのか!? お前は……身の内にそれだけの『欲』を抱えて、よく無事で……いや? 本当に何もなかったのか?」
エルがその手を、聖布越しにわたしの頭の上に載せる。
彼の
「貴志がお前に危害を加えるようなことをするとは思えない――が、普通の男であれば、理性が呑み込まれ、正常な判断がつかなくなる。
酒に宿る神気と、お前という似て異なる
エルが案じてくれた内容に、わたしは慌てて
「貴志は! そんなことしないよ。わたしが望んで……もっと触れてほしいとお願いしても……直接触れてはくれなかった。……許されたのは、同じベッドで眠ることだけ」
わたしの言葉にエルが目を見開き、声を大きくする。
「真珠!? まさか、お前は……酒を摂取した貴志に、関係を求めたのか!?」
「待って! 関係って……少しだけ唇で触れてほしいってお願いしただけだよ。頬とか、顔に触れてほしくて……でも、髪にしか触れてはくれなかった……それに、わたしは今はまだ子供だし、大人になったら――」
朝まで熱を交わす約束をとりつけた――そう口をつきそうになり、慌てて言葉を止める。
「お前がそこまでの『色』を見せても、貴志は何もしなかったというのか……」
エルは溜め息をついて、わたしの頭頂に置かれていた手を動かした。
まるで出来の悪い子供を、仕方がないと呆れながら撫でるような仕草だ。
「『目』は、その者の魂を映す鏡だ――異国の故事にもそんな言葉があるだろう? 貴志から、何か言われたことはなかったか? あいつは――あいつも『正しき心』を持つ男。おそらく誰よりも鋭敏な感性で、お前の真実の姿を見抜いている筈だ」
『目は心の鏡』――たしか……『孟子』の言葉だったろうか。
貴志が先日、口にしていた言葉を思い出す。
『子供として扱うのと、その『目』をしたお前を抱きしめるのは、意味が違うんだ』
エルの手がこの頭上から離れ、再び二人で歩き出す。
「真珠、お前の姿――おそらく、今夜の貴志の目には『女』の姿に映っていた筈だ。何も起きず、お前が無事だったことのほうが奇跡に近い。
あいつの……鋼鉄の理性に救われたな。
触れることさえできないほど、お前を大切にしていることが――証明されたと言うわけだ。これ程の想い……これでは、わたしには――」
彼の言葉は最後、独白めいていたため、すべてを聞き取ることができなかった。
「エル? ごめんなさい。最後、なんて言ったの?」
わたしの問いに、エルは一瞬だけ
けれど、それは気のせいだったのか。
「いや――何でもない。とにかく、その『欲』――劣情を抱えた状態で、酒を口にした男の近くには絶対に寄るな――通常の状態でさえ、危ういんだ。魂と器の均衡がとれるまでは、必ず守れ。分かったな」
わたしは黙って首肯した。
【次話】
21:30更新予定です
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます