第206話 【真珠】愛を乞う 後編


「もし、目の前にいるわたしが大人だったら、貴志は……どうしたい?」


 わたしのこの身体に宿る貪欲なほてりの正体──その答えを貴志が持っているような気がした。



          …



 吐息交じりの質問に、貴志の掠れた声がこたえる。



「その時は──」



 その時は?



「──朝まで……離さない」




 貴志の答えを不思議に思い、わたしは問う。


「今も一緒にいるよ? 朝まで離れないでしょう?」


 その質問に対し、彼は柔らかな表情でフフッと笑うと、まるで子供をあやすような仕草でわたしの頭を撫でた。



「だからお前は子供なんだ。そういう意味じゃない。

 お前のすべてが欲しい──一晩中、熱を交わし合いたい──そう言っている。

 この意味は……わかるか?」


 貴志の瞳が不思議な光を孕み、艶を増す。


 その双眸に、わたしはハッと息を呑んだ。


 今、やっと分かった。

 あの昼間感じた正体不明の感覚は、彼の動きに身体が反応した現象だ。


 ああ、そうなのか。

 この熱──わたしの身体は、貴志との交わりを求めていたのか。


 情炎──そんな未知の欲望が、自分の中に眠っていたことに驚きを覚える。



「わたしが……大人になったら、貴志とひとつになれる?

 その時、まだ──貴志の心にわたしがいたら、求めてくれる? 望んでくれる? 触れて……くれる?」


「……お前の心にも、俺が残っていたなら……」


 その言葉を受け、わたしは彼の頬に唇を寄せた。

 貴志は黙って受け入れてくれるけれど、視線はどこが遠くを向いている。



「今はまだ、お前を求める者たちは幼い子供だ。でも、真珠、忘れるな。彼等も大人になる。

 その時、お前の心は、誰を選ぶのか──悪いが、俺はこの手を離すつもりはない」



 そう言って、貴志はわたしの手を包む。



 わたしを求める者たち?

 貴志は何を言っているのだろう。



「わたしを求めてくれる人は、貴志しかいないよ?

 ……もしかして、ラシードのことを言っている? あれは彼の勘違いだよ? それとも……ハルのこと? シェ・ラの前で、鼻がぶつかっているから? あ、お兄さまは、わたしのことを大切にしてくれて──」


 貴志は焦れた眼差しで、人差し指をわたしの口元に立てた。

 言葉を止めるために、その指で遮られたと表現した方が正しいのかもしれない。


「話を振ったのは俺だが……今は、お前の口から、他の男の名前を聞きたくない……その唇を塞ぎたくなる……」



 その言葉に、胸が苦しさを訴え、心が震えた。

 鼓動が疾走して、喉が詰まる。



 貴志の親指が唇に触れた。

 深い口づけを受けたような錯覚に陶酔し、何も考えられなくなる。


 わたしは貴志に身を任せるように寄り添い、彼の腕の中におさまった。


「真珠、もう一度だけ……お前に触れても?」


 囁きと共に、貴志が静かに口づける。

 重なった箇所は──額。



 前髪の上から、直接肌に触れることなく、想いのみを込めた接吻が贈られる。


 今夜、貴志がくれた二度目の口づけも、髪に触れるのみ。


 そのもどかしさが、身体の奥底に籠もった熱のうねりに拍車をかける。

 ドロリとした欲が、大きな焔に変わり、この身を焦がすようだ。


 彼の中で、今はまだ、この肌へ直接口づけることは許容できないのだろう。



 ──ああ、貴志らしいな。



 そう思うと、触れ合えない残念な気持ちよりも、譲れない部分を線引きする彼の強い意思に対して、不思議と愛しさが増した。



 わたしは貴志の頬を包み、目線を絡ませる。


 彼は応えるように、わたしの瞳を覗き込んだ。



「貴志、今は……髪に口づけてくれるだけで……いい。

でも、わたし……貴志の心を繋ぎとめられるよう、頑張るから……だから……」



 右手の親指で彼の唇を撫でる。



「わたしのことを変わらず求めてくれるなら──十六歳の誕生日に……プレゼントが欲しい」



 ゲーム通りであれば、『主人公』はその頃には、想いを寄せる人物を心に住まわせている。


 貴志がその未来に、わたしを選んでくれたなら──



「貴志が欲しい。キスして欲しい。キスなら……してくれる? 触れるだけで、いいの……だから……その時は……唇に触れて? お願い……」



 恋しくて──本当は今すぐにでも触れたい。

 彼の心を求めるあまり、切なさが涙に姿を変え、零れそうになる。


 けれど、今、泣くわけにはいかない。

 貴志の答えを聞く前に落涙したら、彼は自分の意思に反して諾と答えを譲ってしまうかもしれない。

 わたしは必死に奥歯を噛みしめた。


 堪えることにより、甘酸っぱい痛みが胸から這い上がる。

 それは、喉を侵しながら広がりはじめ、いつしか全身を巡った。


 息をすることさえ、既に苦しい。




「真珠……」



 息を呑んだ貴志が、くぐもった声音でわたしの名を呼ぶ。



 彼を見上げた瞬間、貴志の親指がわたしの唇に触れた。


 優しく慈しむよう口元を滑る指先が、その願いを承諾してくれたと思ってもよいのだろうか?





 わたしは貴志の胸に顔をうずめた。


「今夜は、朝まで……離さない?」


 先程の貴志の科白と同じ言葉を、はにかんだ微笑みを湛えながら口にする。

 彼の語った大人の会話の内容とは違うけれど、貴志は穏やかな笑顔を見せる。



「ああ、勿論──朝まで、離さない」




 その日、わたしは初めて──日が昇るまでの時間を、貴志と共に同じベットの上で過ごすことを許された。




 とりとめのない会話をし、時折笑い合い、心が満たされるような幸せな時間を過ごした。


 眠りについたのは、貴志が先だった。


 今朝は早朝起床で中禅寺湖から鬼押出し経由で都内まで運転し、午後は緊迫感の中でアルサラームのロイヤル兄弟と対峙。

 その後、外出し、更には会議出席と、かなり疲れ果てていたのだろう。



 寝息をたてるその姿は、普段の彼よりも幼く見える。

 こんなにも無防備な様子を見ることができ、心を許してもらえたことに幸福感を覚えた。



 身のうちに燻る熱を抱え、なかなか寝付けなかったわたしも、いつの間にか貴志の隣で眠っていたようだ。



 喉の乾きで、目覚めたのは夜半過ぎ。


 気づくとわたしは貴志の腕の中。

 その胸に大切に包まれていた。


 彼はぐっすりと眠っている。

 起きる気配は微塵もない。



 その時、ふと誰かに名前を呼ばれた気がした。


 彼の腕の中から抜け出し、ベッドから降りる。

 寝室の扉を開け居間に向かうと、明かりが煌々とついていた。


 寝かしつけられそうになって、今の状況に至ったことを思い出す。


 まずは乾いた喉を潤そうと、冷蔵庫からボトルを取り出した。

 冷えた水をコクリと口に含んだところ、再び名前を呼ばれた気がして顔を上げる。


 その瞬間、玄関の外に何かの気配が、突然現れた。


 ──誰だろう?


 疑問に思い、モニターを確かめると、そこには──



「エル?」



 アルサラーム神教の黒の神官服を身に纏った──月の化身のような美しい青年の姿。


 慌ててモニターの受話器を取る。

 わたしが声を出すよりも早く、エルが口を開いた。



「真珠だな? 随分と早い。……呼びかけに気づいた、と言うことか?」



 そう独りごちたエルの、満足そうな笑顔が画面に映った。


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