第202話 【真珠】懇願と白いドレス


「今夜は、ずっと……俺と一緒にいてほしい」


 わたしは彼と触れ合ったまま、「はい……」と小さな囁きを返し、彼の願いに応じた。


 少しでも、彼と同じ時間を過ごしたい。


 ――それは、わたしの望みでもあったから。



          …



「貴志、今夜……起きている間だけは、甘えてもいい? 触れても……いい?」



 夕食の席から部屋に戻る途中、涙声でわたしは問う。

 貴志の首に両腕を絡め、彼の耳元で囁くそれは、ほぼ懇願に近かった。


「ああ……」


 貴志の吐息のような返答が、耳をくすぐる。


「……ありがとう。貴志……」


 ホッとしたわたしは、彼に身を委ね、耳元に口づけを落とした。


 貴志は、わたしの身体を抱きしめてくれた。



 頭を何度も撫でられる。

 その都度、気持ちの昂ぶりを感じ、心の奥に熱を帯びた塊が生まれていく。



 貴志が躊躇いながらも、わたしの額にかかった髪に、唇で触れたのが伝わった。


 傍から見たら、泣いてむずかる子供を、懸命に宥めているように見えるのかもしれない。

 どう望んでも、恋人同士の抱擁には見えないことは分かっている。



 いつもの貴志であれば、許可さえしてくれなかったであろう、わたしの願い。

 それでもこうやって、今夜だけは彼と触れ合うことを許してもらえた。



 その事実を嬉しく感じると共に、二人の時間がそう多くは残されていないことを、貴志自身も感じていたことが伝わった。



          …




「これは何? どうしたの?」


 部屋に戻りソファに降ろされると、貴志は寝室へ向かい、大きな袋を手に戻ってきた。

 会議後に手にしていた二種類の袋のうちのひとつだ。



「お前は寝間着を持ってきていなかっただろう? 小さい子供に人気だと勧められたので、会議の後、ホテル内の店で購入しておいた。気に入るかどうか分からないが――今夜使うだけだから、そこは我慢してくれ」



 ああ、そうだった。

 今日は夕食後、自宅に戻る予定になっていたから、パジャマを持ってきていなかったのだ。


 荷物を整理した時に、貴志が気づいて準備してくれたのだろう。

 いくら子供の身体とはいえ、貴志の前で下着姿で眠るのは羞恥の極みだ。

 その心遣いには、感謝しかない。




 手渡された袋にかかっていたリボンをほどき、丁寧に包装紙をはがす。


 立派な箱の蓋を開け、中身を取り出し、広げると――



 コットンガーゼを幾重にも重ねた、清楚なデザインの白いドレスが現れた。



 ウェディングドレスを模しているのだろうか――小さな女の子の心を釘付けにして止まない可愛らしさで、人気商品の夜着ということも頷けた。


 少し開いた胸元が涼しげで、ふんわりとしたパフスリーブが乙女心をくすぐる。

 ハイウェストで切り替えられた品のある可愛さに、沈んでいた心が浮上する。


 柔らかな手触りで、寝心地もかなりよさそうだ。



「気に入ったか?」


 貴志の問いに、わたしは満面の笑みで答える。


「やっと、笑ったな」


 ホッとしたように貴志が微笑んだ。




 花嫁さんが着るようなドレス型の寝間着に、珍しく心が躍る。

 汗を流し、湯船で身体をほぐしたあと、わたしは早速それを身に着けた。



 貴志がシャワーを浴びている間に、わたしは鏡の前でクルクルと回り、時々ドレスをつまんでは、お姫さまのように歩いて遊んだ。



 演奏会やコンペティションでもドレスは着た。

 自分を魅せる為のドレスは、戦闘用の趣きだった。



 けれど、今着ているものは、貴志がわたしのために選んでくれた物だ。

 それだけで温かな気持ちになる。



 鏡に映る自分を見つめる。


 伊佐子の人生では叶わなかったけれど、真珠として生きる今世では、本物のウェディングドレスを着て、愛する人の隣に立ち――いつか、その人との間に家族を持ちたいなと思う。


 その『愛する人』が貴志だったら良いのにな。


 そんな未来を思い描いた瞬間――再び心に寂しさが生まれる。


 人を好きになると、幸せな気持ちだけではなく、不安な気持ちも併せ持つようになることに、今更ながらに気づいてしまった。


 こんなに苦しい想いを抱きながら、人は皆、生きているのだろうか。

 わたしは両肩を抱きしめ、俯いた。


 その次の瞬間、背後からフワリと抱き上げられたのは偶然ではないと思う。



「うわ! ビックリした。もう、お風呂から上がったの?」


 わたしは、努めて明るく話そうとする。


「ああ、だいぶ前にな。楽しそうにしているお前を見ていた」


 今までの行動を見られていた気恥ずかしさもあり、貴志の首に抱きつき、顔を隠す。


 彼はきっと、わたしの表情と態度の変化に気づいて、咄嗟に抱き上げてくれたのだろう。



 これ以上、心配をかけるわけにはいかない。

 できるだけ元気に聞こえるよう、はしゃいだ声でお礼を口にする。



「もう、早く声をかけてよ。でも……ありがとう。このパジャマ、本当に可愛い。すごく嬉しい――貴志の、お嫁さんになったみたい?」



 口にしてから、最後に自分の願望が出ていたことに気づき、ハッと息を呑む。


 貴志も動きを止めて、しばらく二人で見つめ合った。



 ――先に動いたのは、わたし。



 彼の首に貼られた白いガーゼに視線を移し、震える唇をそこにそっと押し当てた。



「もうすぐ貴志と、離れなくちゃいけないのは分かってる」

 


 そう伝えながら、貴志の耳元に向かい首筋に口づけを落としていく。何度も、何度も。



「真珠?」



 わたしの動きに貴志が驚いたように反応する。


 この唇が辿り着いた貴志の耳元で、わたしは問う。



「どうしたら……何をしたら……貴志はわたしのことを覚えていてくれる?」



 わたしの声は震えている。

 緊張で歯がカチカチと鳴っている。



 貴志の息を呑む音が、室内に響いた。






【後書き】

次話は、夕方17:15更新予定

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