第201話 【真珠】今夜は一緒にいてほしい


 和やかな雰囲気でメインディッシュを食べ終わると、まるで見計らっていたかのように柚子のソルベが運ばれてきた。


 テーブル上の給仕すべてが完了し、スタッフが退席すると、貴志がわたしを呼び寄せる。


 デザートにはまだ手を付けていないけれど、今の話の流れからすると、貴志が食べさせてくれるのかもしれない。



 貴志の左の膝に載せられると、思い出す――観客の前でのごっつんこという名の事故チュウをご披露し、まったく気づかずチャペルを飛び出した時のことを。

 捕獲された後、パーティーの席で彼から説教をくらい、常に膝の上で監視下に置かれながら給餌された黒歴史。


 顔から火を吹くほどの恥ずかしい記憶。


 思い出して俯いていたところ、貴志がわたしの顎の下に触れた。


 この顔を上向かせた彼はソルベをすくうと、わたしの口の中にそっとスプーンをし入れる。



 久々に感じる貴志の色気にのぼせそうになるが、対して口の中には爽やかな柚子の香りが広がる。

 色香と爽快さが戦い、均衡を保っている状態だ。



 わたしだけが食べさせてもらうのも申し訳なくなり、今度はこちらが貴志に食べさせてあげる順番だと動きだす。



 彼が少し戸惑いながら、わたしの様子を見守っている。



「はい! 貴志、アーンして」



 スプーンを差し出すと、貴志は突然その動きを硬直させた。


 ――何故そこで氷になるのだ。


 彼が困惑しているのが手に取るようにわかる。



「ソルベ、溶けちゃうよ? ラシードみたいに頬にぶつかっちゃうかもしれないよ?」



 ハッと我に返った貴志が、わたしの腕をそっとつかんだ。

 その腕を持ったまま、スプーンに近づいたかと思うと、自ら柚子ソルベを食べてしまったのだ。



 ぬお!

 わたしが運んでお世話をしてあげようと思ったのに、こやつめは自分で口に運んで――阻止するとは!?


「もう! わたしが食べさせてあげたかったのに」


 そう言うと、貴志は苦笑する。


「ありがとう。今ので充分だ。これは、意外と……気恥ずかしいものだな。

 それよりも、真珠。ラシードがどうしたんだ?」



 貴志が笑顔で問いかける。

 けれども、何故か目は笑っていない。



「へ? 昼間、貴志とエルがショコラティエで猛禽類の餌食になっている時に、ラシードと食べさせ合いっこをして……遊んでいたの」


 スプーンがお互いの頬にぶつかって、おかしさに笑ってしまい――そうだ……その後、頬を舐められ、口づけを落とされたのだった。


 咄嗟に指先が頬に触れる。

 顔が引きつってしまったのは、完全に不可抗力。


 貴志が、わたしのその変化を見逃すはずはなかった。



「ほう? そうか? で、その頬を手で隠す理由は?」



 どうしよう。

 何かを感じた貴志が、追及の手を伸ばしてくる。


「えへへ……」


「楽しそうだな?」


 いや、楽しくない。

 冷や汗が出そうになる。


 ラシードが行ったのは、子供の勘違いからきた親愛表現だ。



 この状況から早々に離脱するべく、特に隠す必要もなかったので、すべてをつまびらかにする。



 そして、ラシードには教育的指導として注意を与えたことも申し添える。

 わたしは立派に母親役を成し遂げたと胸を張った。



 貴志が軽い溜め息をつく。


「真珠、お前は……目を離している間に……まったく……」


 先ほどまで機嫌がよかったのに、貴志が不機嫌モードに突入してしまった。


「もしかして、怒ってる?」


 ラシードへの指導方法が適切ではなかったのかもしれない。

 不安になり、恐る恐る訊ねてみる。



「怒ってはいない。お前から目を離すのが……しばらく会えなくなることが……不安になっただけ……ただ、それだけ……」



 少し遠い目をして、貴志が自嘲の笑みを洩らす。



 ああ……そうだ――貴志の一時帰国はもうすぐ終わってしまうのだ。



 数か月間の会えない時間が、わたし達を隔てることになる。

 物理的な距離が二人の間に生まれるのだ。



 毎日を共に過ごし、常に寄り添い、彼に頼り切っていた時間は、もうすぐ終わりを告げようとしている。


 不安に苛まれても、抱きしめてくれるこの手は、遥か遠い空の下。


 距離だけでも辛いのに、会えないことで、彼の心まで離れてしまったら――忘れていた不安が心の中に湧き上がる。



 貴志が今後進む道は、この日本への一時帰国で間違いなく良い方向へ変わった。



 『この音』の『葛城貴志』を凌駕する魅力は、隠せるような代物ではない。



 きっと、貴志のこの変わりように、わたしの知らない留学先の人々は興味を持ち、心惹かれていくのだろう。



 魅力的な大人の女性が、彼の目の前に現れるかもしれない。


 もしそうなったら、こんなちびっ子のわたしのことなんて、彼はきっと忘れてしまう。


 近くにいれば、負けるものかと戦えるかもしれない。

 でも、離れていたら僅かな変化に気づくことができるのだろうか?


 わたしは――自分に自信がないのだ。


 貴志と共にいるために、この幼さは有用だった。

 けれど、彼を繋ぎとめるような強固な結びつきを望んでも、今のわたしにそれを与えることはできない。



 離れている間に、貴志の心の隅にさえも置いてもらえない事態が起きたら――



 そう思った瞬間、心が凍る感覚が、この胸を支配する。

 咄嗟に彼の首に腕をまわし、強くしがみついた。



「真珠……?」



 貴志がわたしの名を呼ぶ。




「貴志……忘れないで……わたしのこと」




 ああ、駄目だ。

 声が、震える。



 貴志がわたしの表情を確かめようと、両肩に手をかけ、身体を離そうとした。


 わたしはそのままの体勢で、かぶりを振る。


 今、この両目を見られるわけにはいかない。

 ――不覚にも涙が、こぼれ落ちそうになっているのだ。




「真珠? いったい……何を言って。俺がお前のことを忘れるわけ……ないだろう? どうした?」




 洟をすする音が響く。


 わたしが泣いていることを、察知したのだろう。

 貴志は何も言わずに、頭を撫でてくれた。


 彼はわたしをその腕の中に閉じ込め、強く抱きしめる。


 ずっと……ずっと、こうしていられたら良いのに。

 ――貴志と、片時も離れたくない。



「真珠……泣くな。大丈夫……今夜は、二人で色々な話をしよう」



 貴志の穏やかな声が、耳に心地よい。



 急に態度を変えたわたしを、落ち着かせようとする様子が伝わる。


「ありがとう……でも、もうすぐ……榊原さんがお迎えに来る時間だもの。ごめんなさい……わたしは大丈夫だから。あと少しだけ……貴志に触れていたい……」



「真珠……」



 貴志の少し掠れた声が、わたしの名を囁く。

 耳の奥に響くその声は、不思議な艶を孕んでいた。


 彼に名を呼ばれるだけで、身体の芯に熱が生じる。



「美沙から連絡があった。月ヶ瀬から、ここへのルートの一部が冠水したらしい。だから……」



 わたしは息を呑んだ。



 ああ、今夜は――




「今夜は、ずっと……俺と一緒にいてほしい」



 わたしは彼と触れ合ったまま、「はい……」と小さな囁きを返し、彼の願いに応じた。



 少しでも、彼と同じ時間を過ごしたい。


 ――それは、わたしの望みでもあったから。







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