第189話 【真珠】愛と官能の『一生の恥』! 前編


 ラシードに懐かれた貴志のもとへ、我も負けじと近寄っていく。


 こちらの鬼気迫る様子に、エルが気をきかせてくれたのか、ラシードを呼び寄せる。




「へ? 何?」


 わたしが近くまでやって来たことに気づいた貴志が、その手を突然目の前に差し出したのだ。


「お……お手?」


 わたしは犬か!? と思いつつも、思わず条件反射で右手を載せてしまう。



「真珠、念の為だ――手首を確認させてもらうぞ。さっきの演奏、予定よりもピッチが速かったから少し心配になった。痛みはないか?」



 わたしの腱鞘炎を心配しての行動だと分かり、胸に温かな喜びが広がる。


 相変わらず心配性だな、とは思うが、その気遣いが嬉しい。



 貴志はわたしの手首を目の前まで持ち上げると、まず最初に親指の付け根にそって触診を始めた。


 その眼差しの真剣さに胸が高鳴り、まともに見ていられない。



 駄目だ。

 頬も紅潮しているのが分かる。

 体温も、もれなく上昇中だ。



 彼の指が腱筋を丹念に確認しながら、手首から肘に向かって上っていく。

 痛みを与えないよう細心の注意を払いながら調べているのか、触れた箇所がくすぐったい。


 ああ、貴志が触れているのだな――と思ったら、身体の中心に不思議な熱が生まれた。



 貴志の人差し指が腱にそって内肘を駆け上がる。

 それと同時に、ビリッとした突き抜けるような感覚が背中を走り、何故かお腹の辺りがジワリと震えた。


 今まで感じたことのないような感覚に驚いて、突然口から変な声が洩れてしまう。



「……っふぁ、ん、や……!」



 途端に貴志がピシリと固まり、何事が起きたのかと茫然とした表情でわたしを見ている。



 な……なんとなく気まずい。

 でも、なぜ気まずいのかよく分からない。



「おま……お前は、なんて声を出すんだ。驚いただろう!」



 いや、わたしも相当ビックリした。

 今まで伊佐子時代も含めて出したことのないような、自分でも初めて聴く変な声だった。



「いや、なんか、この辺りがムズムズっとしたから驚いて、思わず声が出ちゃって。……お……お手洗いに行った方が……良いのかな?」

 


 『ここが変だ』と言って、わたしは下腹部をさする。

 貴志も驚いているが、更に困惑しているのはこちらの方だ。



 自分でも気づいていなかったが、本当はトイレに行きたかったのだろうか?

 まさか、これは、新手の尿意なのか⁉



 膀胱に由々しき事態発生で、万が一にも漏らしてしまったら相当気まずい。



 どうしよう。

 自分の身体がよくわからない。


 そういえば時々、貴志に触れられた時に感じたことのある感覚だということを思い出す。


 どんな時だっけ?

 でも、こんなに大きな声が洩れるような異常事態は初体験だ。



 人体模型図が頭の中で描かれる。

 下腹部をさする手の位置で、ハッと息を呑む。



 膀胱ではなくて子宮だ。



 『女は脳ではなく、子宮で物を考える生物だ』と、誰かが揶揄やゆしていたが――わたしは脳ではなく、子宮がおかしかったのか。



 たった今判明してしまった。

 一時期、脳外科で精密検査の必要があるやもしれんと真剣に悩んでいたけれど、検査を受けるべきは脳機能ではなく生殖器。


 なんたることだ!

 これは相当まずい。

 病気だったら将来子供が産めないかもしれない。



 訳が分からず、脳は……いや、子宮が思考停止状態だ。

 待て! あれ? もう自分でも何を言っているのか、全く分からなくなってきた。



 一体全体、これはどういうことなのだろう?


 わたしの方こそ理由が知りたい!


 いや、ここで焦っては駄目だ。

 病気と決めつけるのは時期尚早。



 そうだ!

 貴志が何かのツボを押したのかもしれない。

 一縷いちるの望みを託して、彼に訊ねる。



「今の……何? 変な感覚が走り抜けたというか……貴志、今わたしの身体に、何か変なことをした?」


「俺は何もしていない。腱鞘炎の確認をしていただけだろう。変な言いがかりをつけるな」



 貴志が即答する。

 何故かたじろいで後退あとずさり、しかも狼狽うろたえまくるという世にも珍しい現象を同時勃発させながら。


 こんなに大慌てな彼を見るのも初めてのこと。



「貴志が変だ……やっぱり……わたしは病気?」


 これはいよいよ何かがおかしい。

 とてつもない不安が襲ってくる。



 かなり深刻な事態やもしれんと思って泣きべそをかき始めたところ、あろうことかエルが目の前で突然ブフッと噴き出しおった。



 それも、どうしてもこらえ切れなかったというような勢いのある噴出っぷりに、わたしは眉間に皺を寄せる。



 この王子め!

 こっちは、かなり深刻な事態に怯えているというのに、笑うとは何事か!?



 仮にも『祝福』を与えた相手が、人生最大のピンチなのかもしれないのだぞ?



「エル、ひどいよ。わたし、病気かもしれないって不安になっているのに」


 半ベソをかきながらエルに不満をぶつける。


「ひどいのは……お前の方だ、真珠。貴志が困っている。それくらいにしておいてやれ――それから……安心しろ、それは……病気ではない」

 

 そう言って、ハハハッと、再び笑い出す。

 しかも段々と声も出なくなり、遂にはお腹を抱えだし始めた。



 どうしよう。

 エルの爆笑ポイントもわからない。


 いや自分の置かれた状況でさえ、全く理解できていない。



 わたしがポカンとした表情をしていると、エルが言葉を続ける。


「大人の魂と子供の器を持つことは……確かに不安定だとは思うが、本当に全く分かっていないことは理解した。まったく……大人びているのかと思えば『そちら方面』はかなり奥手というか……残念なほどに疎いのだな。だが、教え甲斐がありそうで、なによりだ」



 エルは笑いを堪えるように声を震わせてそう言い切ってから、再び口元をおさえて笑い始める。



 この笑い上戸め!

 それよりも、お前はこんなに笑う人間だったのか。そちらの方が驚きだ。



 そもそも、エルの言う『そちら方面』とは、『どちら方面』なのだ!?



 突然、咲也が貴志に語った『真珠、恋愛音痴説』が脳裏を過る。


 え? これは色恋に関係することなのか?

 と頭を抱える。


 そうであるのならば、分かるわけがない。

 すべてにおいて未経験。若葉マークのわたしだ。



「教え甲斐があるってことは、エルが教えてくれるの? 概念だけで良いから、今教えてよ。分からないことがあると、気持ちがもやもやして消化不良だ」



 今度はエルの動きが止まる。



「いや、それは……さすがに今のお前には、無理だ。悪いが食指が動かんな」



 食指とはなんたる言いよう。

 わたしは食べ物か!


 まったく、この男は。



「教え甲斐があるって言ったばかりなのに!」


 怒り心頭で恨めしそうにエルを睨みつけると、その隣に佇む蒼い双眸に目が吸い寄せられた。



 ラシードはエルを凝視している。それも、驚愕のまなこで。


 それはそうだろう。

 わたしだって驚いているのだ。


 普段は冷静沈着で感情を表さない兄王子が、今日に限っては微笑んだり、喜んだり、果ては爆笑するという天変地異の前触れのような状態が発生しているのだ。


 相当な困惑具合なのだろう。


 わたしが憐憫れんびんの眼差しでラシードを見ていたところ、貴志から名前を呼ばれた。


 貴志こやつめは、ものすごい溜め息を吐いたあと、反対側の腕を見せてみろ、と言ってきた。



 落ち着きを取り戻した貴志が『そうだった。お前はそういうヤツだった』と、何故か憔悴しょうすいした声で独りちながら、わたしの左腕の状態を確認しはじめる。





【後書き】

後編は、本日15:05に更新予定です。

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