第188話 【真珠】恋する『バンブル・ビー - Bumblebee -』
エルがピアノでAを鳴らす。
貴志が再度調弦し、わたしもチューニングを完了させた。
…
ラシードに声をかけるべきかどうか悩んだけれど、エルが首を左右に振り、貴志もそれに同意した。
声をかけずに三人で弾き始めよう――声に出さない会話がその場で纏まった。
ラシードは、かなり落ち込んでいる。
そして、多少の拗ねも見え隠れする。
よって、三人で演奏するので聴いてほしいと伝えるのは、返って逆効果だろうというのが三人の見解だ。
横目でラシードを盗み見る。
膝を抱えてはいるが、こちらで演奏準備にとりかかるわたし達の動向が気になるのか、チラチラと視線を感じる。
よし! ラシードの意識は、完全にこちらへ向いている。
かなり興味津々のようだが、叱られて落ち込んでいた手前、こちらに寄って来るまでには至らない。
彼のプライドが許さないのだろう。
貴志のチェロに先行してもらうことにして、そこにエルのピアノ伴奏を加え、わたしが折り重なるようにバイオリンで入ることに決めた。
即興だ。
おそらくこのメンバーだからできる荒業でもある。
貴志の演奏の素晴らしさは、勿論折り紙付きだ。
エルの演奏も、その貴志に勝るとも劣らない技術を持っている。
先ほどの『チェロ協奏曲』――リハーサルなしの合奏で、あの域の演奏を二人で作り上げたのだ。
彼等の音楽的センスと、互いの呼吸を読み合う勘には脱帽だ。
貴志は自分の演奏技術には、それなりの自信を持ち合わせているはず。
エルにしても、咄嗟にこの曲に加わると言えるだけの技量を持っているのだ。その腕にも相当な覚えがあるのだろう。
この曲は、奏者の技術を知らしめるために存在すると言っても過言ではない、超絶技巧を必要とする難曲なのだ。
貴志が
演奏すること自体を、心待ちにしているのが分かった。
エルは指を動かし、軽いストレッチをしている。
その態度からは、演奏を楽しむぞ、という気概が伝わってきた。
わたしが途中でアレンジを加えても、平然とそれに合わせてくれるだけの技量が彼らにはある――これは予想ではない、確信だ。
貴志が鼻から息を吸い込んだ。
次の瞬間、彼が弓を引くのと同時に、左の指先がフィンガーボードを駆け上がる。
細かな指の動きと、勢いのあるパッセージ。
その音色に、弾かれたようにラシードが顔を上げた。
その瞳は驚きに色づいている。
バズリングサウンド――蜂の羽音が部屋中に木霊する。
ロシアの作曲家、リムスキー=コルサコフの著した『Flight of the Bumblebee』――邦題は『熊蜂の飛行』や『くまんばちは飛ぶ』と訳されているが、バンブル・ビーは恐ろしげな熊蜂ではなく、ハチ界の天使と名高い、モフモフと可愛らしいマルハナバチのことだ。
オペラ『皇帝サルタンの物語』の中で演奏される一曲。
主人公の王子が白鳥の魔法で姿を蜂に変え、悪役姉妹である伯母達を懲らしめる場面で演奏される――ハチの羽音を模した人気曲。
このバズリングサウンドをより顕著に響かせるためには、高速弾きが要求される。
エルのピアノの音色が、貴志のチェロに襲い掛かる。
ピアノとチェロが嬉々として音を戦わせ、まるで挑み合いをしているようだ。
その音の掛け合いに、この心は躍るばかり。
バイオリンの音色を響かせ、わたしもそこに参戦だ。
高音の羽音が部屋中に響き渡る。
それと同時にエルの音色が抑えられ、主役はチェロとバイオリンに移る。
一対一の敵同士の勝負を繰り広げた、ピアノとチェロ。
けれど、わたしと貴志が奏でるのは、共闘の音色。
向かい合う敵から勝利を勝ち取るために手を取りあう、一対の調べ。
本来は、ラシードとエルの待ち受けるこの部屋を敵地とみなし、彼等と戦うつもりで準備してきた曲だ。
当初予定していた想いとは異なり、今はラシードを元気づけようと奏でている。
なんだか不思議な気分だ。
貴志の音色が、よそ見をするなと語りかける。
ああ、そうだ。
今は、彼と共に爪弾く幸せに、心から浸ろう。
この一体感はどこから来るのだろう。
この音が欲しい――その場所にピタリとはまるように、チェロの音色が折り重なる。
貴志の調べに誘われ、足を踏み出す。
途端に、その音の渦に巻き込まれ、全てを絡めとられる。
わたしも負けじと彼を
共鳴するバズリングサウンドが耳の奥に届き、恍惚とした心地に支配される。
この音が、調べが、心の中のすべてをさらけ出していく。
この想いは、彼に正しく伝わるのだろうか。
わたしの音を受けた貴志が、チェロをうたわせる。
その音色は、心に呼応するかのように、深い色に染まっていく。
求めてやまない愛する人に、この音色すべてをゆだねることのできる安心感が、この頬をゆるませる。
わたしが視線を送ると、それに気づいた貴志は穏やかに笑った。
この魂が溶け合うような共鳴は、二人の心が通じ合った証。
そう信じても良いのかもしれない。
弦楽器が怒涛のような音色を生み出し、双方が絡み合う。
存在感を主張するピアノが急かすように響き渡り、進むべき道を指し示す。
僅か一分半の調べ。
最終小節に向けて三人同時に高音域にのぼりつめ、滑らかな音色で物語の終わりを演出する。
最後の音を三人同時に鳴らし、演奏は無事、その幕をおろした。
自分で言うのも憚られるが、圧倒的な演奏だったと思う。
しかも、ラシードがあまり聴いたことのないような曲目だった筈だ。
ソファに視線を移すと、ラシードは身を乗り出し、口を開けたままこちらを見つめていた。
その蒼い瞳には、いきいきとした輝きが取り戻されている。
彼は真剣にわたし達の演奏に耳を傾けていたようだ。
その頬は上気し、瞳が感動で潤んでいるのが良くわかった。
――ああ、よかった。
そう思って、彼に笑いかける。
ラシードは、少し気まずそうな表情を見せたが、照れたような笑いを浮かべると、盛大な拍手をわたし達に贈ってくれた。
ラシードが両手を広げて近寄ってくる。
「これは何という曲なんだ?」
これはまた抱きしめられるのか、と軽く身構えたところ――なんと碧眼王子はわたしを軽くスルーし、「教えてくれ、貴志」と
「へ?」
憧れの眼差しを貴志に向けたラシード。
その瞳はキラキラと輝いている。
貴志がラシードに対して曲目を伝え、どんな場面での演奏なのかを紹介している。
ひと通り説明を聞いたラシードは、納得の表情で頷く。
「お前のチェロの音は、本当に蜂の羽音に聴こえた! 素晴らしい! あれはどうやったら出せるんだ?」
まさか自分がラシードに懐かれるとは思っていなかったのか、貴志は驚きながらも、あの音色を出すコツをラシードに伝授している。
そうなのだ。
この曲――チェロで奏でる音が、最も蜂のバズリングサウンドに似ているのだ。
その昔、尊と弾いた時にも感じたこと。
だから昼食前に、チェロも加わり一緒に弾いてほしいと、貴志にお願いしたのだ。
けれど、これ程までにラシードの心を鷲掴みにするとは、正直言って想定外だった。
なんと――この碧眼の王子さまは、今度は貴志から離れなくなった。
ちょっと、待て!
何を隠そう、この『バンブル・ビー』を弾き終わったら、感動のハグを貴志と交わす算段をしていたわたしだ。
短い時間の共闘ではあったが、お互いの心をさらけ出し合った仲なのだ。
貴志に、わたしの海よりも深いであろうこの想いが伝わり、あわよくば恋人同士がするような感動の抱擁が待ち受けていたはずだったのに。
……だったのに。
……いや、でも、演奏時間的に、全てを伝えられなかった事実は認めよう。
先ほどはエルに貴志を奪われそうになり大変焦ったものだが、なんとか死守できたのだ。
――が、今回はラシードに完全に貴志を掻っ攫われてしまった!
横からポッと出の彼に、だ。
エルにも『主人公』にも、それこそ他の誰にも、貴志は渡さないと宣言したばかりだというのに。
――思わぬ伏兵は、まさかのラシード!
これは由々しき事態だ。
『鳶に油揚げを攫われる』とは、今のこの状況のことを言うのではないだろうか!
くそう。
この兄弟は、わたしに何か恨みでもあるのか。
わたしの茫然とした様子を目にしたエルが、ピアノの陰で肩を震わせて笑っている。
エルめ、許すまじ!
拳を握りしめ、今日この時を以って、アルサラーム王国美形兄弟は、わたしの中で『貴志を巡る敵』認定させていただくことと相成った。
【後書き】
読んでいただき、ありがとうございます(*´ェ`*)
演奏が終わりました。
次回、貴志が真珠の言葉でタジタジ(エル失笑の)回となります。
その後、ハプニングありの甘々回も待機中です!
『Flight of the Bumblebee』
Tina Guoさんの楽しそうなやり取りが可愛いです。
ピアノ&チェロのデュオ(演奏は0:35から)
https://youtu.be/g5GkX70hrzo
オーケストラ
https://youtu.be/T9JKCoxn2wc
バイオリン演奏
最後の指揮者の行動が笑顔を誘います。
https://youtu.be/vtAu7xkwNjQ
この曲を初めて聴いた時の衝撃は、言葉では表せません。本当に蜂の羽音でした。
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