第165話 【真珠】エルとの対話


 貴志を残して化粧室から出ると、エルが廊下で待っていた。


 教皇聖下にトイレの出待ちをさせる婦女子など、世界広しと云えどわたしくらいなものであろう。穴があったら入りたい。


 エルには、「随分、長いトイレだな」と思われていたのかと思うと、軽く目眩めまいもする。

 先程の貴志との会話から、食べ過ぎでお腹を下した残念女子認定されているのは間違いない。


 己の羞恥心は、『漏れる』演技によって廃棄処理済みだった筈だが、わたしはガックリと肩を落とした。




「話し合いはお済みですか?」


 エルは、にこやかな笑顔を見せて問うた。


「へ? うひゃい」


 恥をかなぐり捨てたアカデミー賞級の演技だと思っていたのに、ものすごい笑顔で質問されてしまった。


 駄目だ。バレバレだったようだ。


 わたしは溜め息をついて、エルに目を向ける。

 非常に気まずい。



「レディ真珠……いえ、真珠──彼と共に化粧室に入った時点で分かりますよ。貴女の『器』は子供ですが、その魂は──少女と大人の女性の心がせめぎ合い、混在している」



 エルの両手がわたしの頬を包み、真上から見下ろしてくる。



 心の奥底を確かめようとする眼差しは、彼が貴志に向ける棘のあるものとは違い、温かさを感じる。



(エルは、わたしの中に、何かを探している?)



 どうしてそう思ったのかは分からないけれど、彼はわたしの姿ではなく、何かの幻影を求めているような気がした。



 至近距離での会話だ。


 普段のわたしであれば、どう反応して良いのか分からず、氷のように固まっていたことだろう。


 けれど、不思議とエルに対しては警戒心がわかない。



 それは、彼がわたし自身を見ている訳ではないと、心が理解していたからなのかもしれない。



 そんなことを客観的に感じていたところ、突然エルの意識がわたし自身へと向けられたのが分かった。




「真珠……私の目に貴女がどのように映っているのか、興味はありませんか?」



 彼の双眸を彩るのは、輝く二粒の黒曜石。

 瞳の深い色合いに、吸い込まれそうになる。


 その恵まれた容姿は、何処にいても人目を引くのだろう。

 彼自身も、そのことを充分熟知しているようだ。



 きっと、こんな風に見つめられたら大抵の女性は骨抜きにされる筈だ──が、残念ながら、わたしには美形耐性がついている。


 兄も父も、そして祖父でさえも素晴らしい容貌を兼ね備えているためか、麗しさに関しては既にお腹いっぱい状態。

 見慣れているのだ。


 そこに貴志が見せる、あの色気が加わり、そちら方面の耐性も完備されてしまったので、向かうところ敵なし──ただ見つめられるだけであれば、ちょっとやそっとのことでは動じない。多分。



 しかも、わたしの心の中は、近頃とみに貴志でいっぱいだ。

 頭の中も、彼のことで溢れ返っている。

 貴志以外のことは考えられない。



(……ん? あれ? ちょっと待て。本当にどうしてしまったのだろう──わたしの脳ミソが貴志まみれになっている。これは……おかしい。かなり由々しき事態だ)



 エルに間近で見つめられながらも、貴志のことが頭の中に溢れ始め、妙な焦りを覚える──が、今はそんなことに捕らわれている場合ではないのだ。



 目の前の彼は──エルは、何と言っていたのだっけ?


 そう、わたしが彼の目にどんな姿に映っているか興味はないか、と問われたのだ。



「興味は、あるけど──エル、こういう色仕掛け? みたいなことは、残念ながらわたしには効かないよ。そういう手なら、他の女の人につかって」



 両頬を包むエルの手を離していきながら、わたしはニッコリと笑う。



「残念です──これは、姉からの直伝。女性を意のままに操る方法と言っていたので、物は試しと使ってみましたが、どうやら失敗に終わったようですね──理由は、葛城貴志、ですか?」



 わたしはその質問に対しては何も答えず、エルと静かに対峙たいじする。



 こんな方法を使ってくるのだ。


 やはりエルは、わたしを外見通りの子供として見ていないことが伝わる。



 彼もおそらく、言葉で説明するよりも、態度で示した方が手っ取り早いと踏んで、先ほどの行動をとったのかもしれない。



「そうですか──それは、大変妬けますね。シェ・ラからの夢の啓示に現れた貴女に出会ったのは、彼よりも私の方が先だと言うのに──しかし、まさか『器』が幼子とは、思いも寄らなかった」



 夢の啓示?

 『器』?


 エルの言葉に首を傾げる。


 少し警戒して、わたしは一歩後ろにさがった。



「悪ふざけが過ぎたことは謝罪します。

 私達にとって貴女は、来るはずのなかった未来を運ぶシェ・ラの使者。我々が諦めた、その先へ向かう道を指し示す──天命の女神。少なくとも私とあの方は、そう呼んでいます」



 私達。

 私とあの方。


 ──持ちうる情報で当てはめると、エルと第三側妃のことだ。



「ねえ、『天命の女神』って、なんのこと?」



 スッと気持ちを入れ替えて、エルを見据える。


 彼は真摯な眼差しで、わたしの目の前で膝を折った。



「ああ、その『目』──やはり貴女で間違いない。夢の中に何度も現れた貴女は、幼子の姿ではなかったけれど、魂の色と、その『目』だけは同じだった」


 目?

 夢?

 魂の色?


 先程から、彼は何の話をしているのだろう?


 エルは声のトーンを落とし「信じていただけるかどうかは分かりませんが」と前置きし、彼の母親──第一正妃は祭祀さいしの家門シャイヤ家の出で、王妃ではあるが巫女でもあり、自分もその血を色濃く受け継いでいると語った。



 エルは夢見によって、太陽神シェ・ラからの啓示を受ける所謂巫覡ふげき──シャーマンに近い存在のため、教皇にまつり上げられたのだと教えてくれた。



 アルサラームの神教の教皇には、代々シャイヤ家の血を引く王子もしくは王女や王孫が就くことになっているらしい。



「先月の半ば以降のことになります。突然、私が幼い頃から見続けていた悪夢の夢見が変わったのです。代わりに現れたのは、まばゆいばかりの赤い日輪と貴女──最初は、それが何を意味するのか分からなかった──」



 エルは付け加えるように「実際には、貴女の姿は今の『器』ではなく、妙齢の女性でしたが」と独りち、自嘲の笑みを見せた。



 彼は、夢に現れたというわたしの幻影を、この身の内に探していたのだろうか。



 その様子が気になりはしたが、わたしは黙って彼の話を聞き続けた。



「赤い日輪で思い浮かんだのは、日本の国旗。この国を訪れ、夢に現れる女性に会うこと──それがシェ・ラからの天命だと気づき、陛下に訪日の許可をいただいたのが先月末のこと。その直後から、私と、ある高貴な女性の運命が徐々に塗り替えられて行ったのです」



 エルと共に運命が塗り替えられるという、ある高貴な女性──ああ、おそらく間違いない。



「それは、第三側妃……?」


 ラシードの母親だ。


 その呟きに、エルの動きが止まった。


 それは、事故で他界する運命が変わり始めたということなのだろうか?


 わたしと出会うことによって未来が変わる──そう考えるのならば、何を恐れることなく、この先の未来を伝えることができる。



「何故、分かるのか……知りたい?」



 首を傾げ、わたしは彼の瞳を見つめた。



 知りたい──と、彼から返答がきて、貴志だけが知るこの秘密を開示するものだとばかり思っていた。


 けれど──



「いいえ──わたしが天から命じられたのは、ただ日本を訪れ『女神』に会うことのみ。貴女はその不可思議な魂について話そうとしていたのかもしれませんが、今は必要ありません。『天命の女神』たる貴女に出会えた。これでシェ・ラとの契約は成ったのです」



 エルの言葉に、わたしは拍子抜けしてしまった。


 悩んで迷って、貴志の後押しにより、エルにだけはわたしの知る未来を伝えようと決心したというのに、不必要だと伝えられたのだ。


 ゲームの中でラシードが語った内容と、今しがたエルが語った夢見の内容からも、彼は自分の死期を悟っている。


 そして、わたしはそれを回避する方法を知っているのだ。


 喉から手が出るほど、知りたい情報ではないのだろうか?



「どうして? その悪夢の運命から逃げる方法を、わたしは知っているんだよ?」


 伝えなければならないと焦るが、エルは穏やかに笑うばかり。


「それ以上は人の身には過分な領域。貴女と出会うことによってシェ・ラとの契約が成った今、その悪夢へと続く未来は消え、新たな道が拓かれた──貴女が知る、悲劇の未来自体がなくなったのですよ。その状況が訪れることは、未来永劫ありません」


 そう断言されてしまうと、何も言うことができない。


「貴女が不安に思うように、わたしも未来を変えることができるのかどうか、半信半疑でした。けれど、今、わたしの目には視えるのです──運命を塗り替えられた魂の持つ独特の輝きが、この身を包む様が……。この色は、葛城貴志の色と同じ──彼も貴女によって、新たな未来を与えられたひとりなのですね。今、やっと納得できました」


 そうなのだろうか?

 本当に伝えなくても良いのだろうか。


 わたしはエルの様子を、ただ窺うことしかできずにいた。


「心配しなくとも大丈夫です。おそらく、貴女と我々が、これから築いていく時間に、その答えが隠されている──それがシェ・ラの神意」


 エルは跪いた姿勢のまま手を伸ばし、この右手を取る。


「私の──いえ、我々の『天命の女神』に最上の敬意を」


 そう言ってから、彼はわたしの手の甲に、その額を当てた。




「貴女は、この世の摂理から外れた、数奇な魂をお持ちのようだ。貴女を心から理解する人間を欲しいと思ったことはありませんか?

 真珠──私は貴女の、最大の理解者になる自信がありますよ──そう、葛城貴志よりも」


 エルは顔を上げると、わたしの右手を掌におさめたまま、そう語った



 その科白に、何も言葉が出てこない。

 何故、彼がこんなことを口に乗せたのか、全く理解できなかった。


 エルはわたしの様子をうかがい、静かに笑みを浮かべる。


に、シードの『祝福』を受け、我が国へお越しいただきたい。ただ、私のかたわらに──……いえ、シードの第一夫人としての貴女の後ろ盾となりましょう。貴女のアルサラームでの庇護者になると共に、私の理解者にもなっていただけたらと──そう、思ったまで……」


 その科白の途中──エルの心に、一瞬の迷いが生じたように感じた。


 ほんの僅かの時間だったので、もしかしたら気のせいだったのかもしれない。


 エルは難しい顔をして、黙って何事かを考えていたようだけれど、気を取り直したのか、ゆっくりと顔を上げた。



「そろそろシードも退屈している頃でしょう。貴女は先に部屋に戻り、彼との時間を過ごしていただけると助かります。私は、ここで貴志を待ちます」



 ラシードの名前を聞いて、わたしは大切なことを思い出す。



 この短時間の間に色々なことがありすぎたので、完璧に忘却の彼方に押しやるところだったが、今日の最大の目的は『祝福』の辞退なのだ。



 エルには「ラシードの『祝福』を受けるように」と、促されたばかりだが、わたしとしてはその気は無い。



 よって、少し遠慮がちに質問してみる。



「あの……エル? 『祝福』を辞退したいと言ったら、どうなるの?」


 エルは、それに対しては何も答えてはくれなかったが、その代わりに、とんでもないことを教えてくれた。


「真珠、貴女には太陽神シェ・ラの御前にて将来を誓い合った相手が、三人いるようですね」


「へ? 三人?」


 どういうことなのだろう?

 随分気の多い女のように聞こえるのだが、三人とは一体誰のことなのか?


 エルの手がわたしの顎に触れ、この顔を上向かせる。次いで、瞳の奥を覗き込む。


 彼はエレベーターホールの時のように、わたしの背後に何かをている気がする。


 不思議なことに、嫌な気持ちにはならない。


 先程彼が、対女性用の姉直伝テクニックを披露した際、わたしの両目を見つめていた時とは雰囲気が異なる。



 今の彼に対しては、性別というものを感じないのだ。



 人の目には見えない何かを視認しようとしている彼に、男女の性を超越した存在を感じるのが原因のひとつなのかもしれない。



「ひとりはシード、もうひとりは音楽の神カ・テラの寵愛を受けし者、そして、より強固な誓いを交わしている相手は──葛城貴志?」




 目の前にあった彼の顔が離れると、エルは精悍さをその表情に取り戻す。


 突然、彼が男性に戻ったような感覚に驚き、わたしは慌てて後退した。不意打ちだったので、驚いてしまったのだ。


 けれど、あまり大仰おおぎょうに離れるのも失礼な気がして、一歩の距離で我慢する。


 その様子を見たエルが、一瞬だけ目を見開くと、静かに笑った。


「貴女は感じるのですね。神懸かりしている私と、普段の私の差を」


 わたしはゴクリと唾を飲み込んでから、ゆっくりと首肯した。


「雰囲気が……全然違う。ちょっと驚いた」


 エルはわたしの言葉に頷くと、今度は口元に手を当て、何事かを思案しているように見えた。


「──奇跡のような存在……」


 彼の呟きが耳に入ったので、どういうことなのだろうと思って首を傾げると、エルは「何でもありません」と首を左右に振った。



「それよりも、真珠。貴志ともう一人の少年と──どこで誓いを交わし合ったのか、お心当たりはございませんか? 貴志に至っては、既に『音色』の奉納も済ませているようです」



 ──『音色』の奉納?



 その言葉に、わたしの脳裏をある映像が駆け抜けた。


 どこかで見たことがあると思った、ラシードの部屋に飾られたタペストリー。


 そうか! あれは──あの紋様は、ゲームの中で見たわけではなかった。



「わかったよ。エル──」



 わたしは答えが出た嬉しさから、エルとの空間を詰めるべく、足を一歩前に出す──その直後、わたしの身体に腕が絡みつき、後方に引き寄せられた。



「聖下──いや、エル。今、真珠に何をしようとした?」



 首を回して後ろを振り返ると間近に貴志の顔があり、気づくとわたしは彼の腕の中にいた。



「貴志──『女神』の魂の伴侶が登場ですか。何もしておりませんよ──今は、まだ。ただ、彼女がここに存在する奇跡に、心が躍っただけです」



 エルは立ち上がり、わたしを見つめて微笑んだ後、次いで貴志に視線を移す。



 一瞬、二人の間を刺すような雰囲気が取り巻いた。



 けれど貴志は、今まで見せたことのない程の極上の笑顔をそのかんばせに湛えている──先程感じた、不穏な空気は気のせいだったのか?



 何が起きているのか全く分からず、わたしは貴志の腕の中、二人の顔を交互に見つめることしかできなかった。





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