第164話 【真珠】迷い と 後押し
エルに伝えようと決心したものの、色々と思うところはある。
──この世から去る運命にある人間を、助けても良いのだろうか?
人の生死に関係することに触れるのは、少し怖い。
けれど、このままではラシードが──幼い彼が、背負うことになる辛苦は、あまりにも重い。
彼は愛する者たちと、筆舌に尽くしがたい悲惨な別れを経験する。その悲しみは、心の傷となって、彼を生涯責め続けることになる。
『主人公』は彼の心を癒してくれるだろう。けれど、喪失の痛み全てを、消すことはできない。
そして、何よりも──第三側妃もエルも、間違いなく、今、この時を生きているのだ。
例え自然の摂理に反することであっても、彼等の生命を救えるのであれば、どうにかして助けたいと思ってしまう。
これは未来を知るわたしの──傲慢さから生じた考えなのかもしれない。
「俺は──」
貴志は、そこで言葉を一旦止めた。
「『俺は』?」
わたしは
「お前に出会えて良かったよ。幸せだと心から笑える、こんなに満ち足りた気持ちを知ることができたんだ。だから──ありがとう。俺を、美沙を、救ってくれて……本当に感謝している。
用意されていた運命なんて、俺は知らない。今を生き抜いた先にある未来だけが──俺の真実なんだ」
貴志はわたしの心を見抜き、後押ししてくれたのだろうか。
人の運命を変えてしまえるだけの情報を、この手にしている恐ろしさと迷い──それをつぶさに感じ取り、寄り添ってくれる彼には、感謝の念が絶えない。
貴志は、わたしの心を読むことに関しては、わたし自身よりも
こんな時に感じる感情ではないのだけれど、温かな気持ちが胸一杯に広がる。
「貴志、ありがとう。……どうしよう、駄目なのは分かっているんだけど……今、貴志と……キスしたい……と思った。あのね、ごめんね。出来ないのは分かってるよ……でも、思ったことを、伝えたかったの……」
こんな気持ちが湧き起こったことに愕然としたが、思わず口をついて出てしまった言葉に、自分自身でも少し慌てる。
驚いたように目を見開いた彼は、一瞬呼吸を止めたあと、困った笑顔を久々に覗かせた。
「そう思ってくれて……ありがとう。だけど──流されるようにそんなことを言っては駄目だ。お前が大人になって、自分が本当に望む相手だと判断できるまでは、軽はずみな行動はするな──興味本位と受け取られかねない。
特に、今のお前の心の状態でするものでは……ないんだ」
『ありがとう』と言いながらも、貴志の表情が複雑そうに揺れたのは、何故なのだろう。
(これは、興味本位なのだろうか? それに、心の状態って?)
よく分からない。
貴志は何故そんなことを言うのだろう。
思わず口走ってしまったとはいえ、自分が思ったことを素直に伝えただけなのに。
それだけでは駄目なのだろうか?
わたしは彼を困らせただけなのかもしれないと不安になったものの、その思考は彼の言葉で遮られる。
「今はこれで……我慢しておけ」
そう言って、貴志の手が頬に触れた。
この手に触れられると心が落ち着く。
いつもの如く、その手に甘えるよう、頬ずりをする。
彼の指が動いた。
ひんやりとした右手の親指が、唇の上をゆっくりと滑る。
わたしの唇に優しく触れた彼の指先は、すぐに離れてしまったけれど、嬉しさが心に広がる。
ありがとうと伝えたいのだけれど、顔が
心臓がドキドキと音を立て、言葉が出てこないのだ。
涙目になりながらも貴志を見上げると、彼はわたしの頭を撫でた後、スッと立ち上がった。
「そろそろ、お前は戻れ。エルのあの態度を見れば、何か危害を加えられることはない」
「貴志は、どうするの?」
わたしの質問を耳に入れながら、彼はスマートフォンを取り出した。
「少し確認しておきたいことがある。それを調べてから、すぐに戻る。お前も、エルと二人で話すことがあるんだろう?──その時間は、今しかない」
わたしは頷いて、立ち上がった。
エルと第三側妃の件に関しては、前向きに対応していこう。
何もできずに手をこまねいている間に、彼らが黄泉路に向かってしまったら、わたしはその先の人生を後悔しながら生き続けることになる。
これは、ラシードや彼らの為でもあるが、自分の心を守るためでもある。
自然の流れに背くことになるのかもしれない。
けれど、それを言うのならば──わたしの存在自体が摂理に反したものなのだ。
生きている人間を助けたいと願うのは、人の持つ自然な感情。
だからわたしは、自分のできる範囲で最善を尽くそう。
貴志に手を伸ばして抱き着いた。
彼はしっかりと受けとめてくれたけれど、微かな吐息の洩れる音がわたしの耳に届いた。
多分、わたしは貴志と想いが通じ合ってから今まで──初めて感じた恋愛感情の昂ぶりに、自分自身でも気づかない程、かなり舞い上がっていたのだと思う。
貴志はそれを察して、注意を払ってくれたような気もする。
ても、もしかしたら、それだけでは無いのかもしれない。
彼は何を、思い悩んでいたのだろう。
残念なことに、この時点ではわたし自身が全く気づいていなかった──彼の考えも、自分の思いでさえも。
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