第163話 【真珠】乙女の恥 と 十年後
そしてラシードは、そのエルの背中にしがみついている。
ねえ、ちょっと待って。
いま、貴志はエルのことをなんという称号で呼んでいた?
エルは自分自身で、訪日中にラシードの侍従職を国王陛下から拝命されたと言っていた。
太陽神シェ・ラを主神とする太陽信仰の国アルサラーム。
その神教の事実上のトップとなるのが教皇聖下なのだが、ゲーム時点では確か国王陛下が兼任していた筈だ。
エルのことを怖いと思っていたが、その正体が分かった。これは―――
彼から伝わる浮世離れした雰囲気は、神々しさから醸し出されたもの。
近寄ることですら
貴志と話しがしたい。
手持ちのカードを整理して、彼に伝えなくてはならない。
自分の頭の中の情報量も圧倒的に足りない。
(これは、恥ずかしいが……もう、この手を使うしかない)
口を押さえる貴志の手に対して、苦しいと訴え、外してもらう。
わたしは冷や汗をかきつつ、少し恥じらう演技を披露する。
「あの……あの、申し訳ありません……ちょっと……お手洗い? をお借りしたいのですが……」
この場の誰一人として、わたしにそんな言葉を求めていないことは百も承知している―――が、このまま話を進めたら非常にマズい。
ラシードが怪訝な表情を向け、エル……いや、教皇聖下が手を離す。
わたしは五歳のお子様特権を遺憾なく発揮することにした。
人間の排泄現象を訴え、この場を離脱させていただくべく行動を開始する。
貴志は何かを感じ取ってくれた―――のだが、わたしの常日頃の食欲を思い出し、まさかの可能性にも思い至ってしまったようだ。
「真珠、お前、昼の食べ過ぎで……腹でも壊した……のか?」
なんと!? そっちか!
せめて『小』の方を想像してほしかった。
恥じらった時点で負けだと分かっているが、ものすごく恥ずかしいではないか!
「ちっ……違います! 失礼な! ちょっと月の障りで……」
わたしの言い訳に、貴志は額に手を置いてゲンナリした声を洩らす。
「お前は……もういい、何も言うな……」
ああ、そうだった。
わたしはまだお子様すぎて、そんなものは訪れていない。
この際、恥はかなぐり捨てよう。
「貴志! 緊急事態発生だ! 漏れる!トイレに案内して! それで、それで……っ て……手伝って?」
お手洗いで何を手伝わせるのだろうか―――と思いながらも、とりあえず作戦会議を開きたい。
わたしはそう言いながら、慌ててバイオリンケースを背中から降ろし、部屋の隅に置かせてもらう。
漏れる―――のポーズも、演技に追加。
乙女としての大切な何かも、既に廃棄済みだ。
戸惑いながらも何かを察した貴志がチェロケースを横倒しにして、同じく部屋の壁際に置く。
貴志はこのホテルの関係者だ。この豪華スイートルームのお手洗いの場所も知っているはずだ。
そう思って部屋の外に貴志を連れ出そうとしたところ、エルがそれを制止する。
「私がご案内いたします。介助が必要であれば、ミスター葛城―――いえ、貴志―――あなたもこちらへ」
エルは流れるような美しい所作で、進む方向へと手を伸ばす。
「いえ、聖下のお手を煩わせずとも、場所は心得ておりますので」
貴志がやんわりと断ったにも関わらず、エルは
「エル、と―――この呼び方に慣れていただかなくては、今日、あなた方に頼みたいことが実現しませんので」
教皇聖下―――いや、エルは「ああ、そうだ」と言ってラシードを振り返る。
「シード、楽器の準備をしておくんだぞ。『祝福』は不測の事態かもしれないが、シェ・ラに音色を捧げることを忘れてはならない。わかったな?」
ラシードは半眼になりながら、不服そうな表情をエルに向ける。
「シエル―――この『祝福』、教皇権限で握りつぶしてくれてもいいものを―――」
王子殿下はブツブツと文句を垂れながらも、渋々動き出す。
「握りつぶしてもいいが―――そんなことをしたら、お前が将来、後悔することになる」
エルの言葉を耳にし、ラシードは蒼い瞳を大きく見開いた。
その後、軽く溜め息を落とすと、「仕方がないな」と言いながら、楽器の準備を始めるべくピアノの近くの棚へと歩み寄る。
どうやら、ラシードはエルには頭が上がらないらしい。
いや、懐いていると言った方が正しいのかもしれない。
「私はお前の演奏が好きだよ。だから、お客人にも聴かせて差し上げるんだ」
エルのその言葉に、ラシードは目を丸くしてわたしを凝視した。
視線がパチッと合った途端、キッと睨みつけられて顔を背けられる。
野良猫のようで、うっかり手懐けたくなってしまう衝動に駆られるのだが、それは絶対にしてはいけない行動だ。
このまま、嫌われ者路線を突っ走ろう。
うん。いい感じだ。
なんだか色々と想定外の事態が起きているのだが、『祝福』辞退に向けては好スタートを切っている気がする。
…
「しゅみまひぇん……」
お手洗い兼洗面所に案内されて入った直後、貴志に両頬を引っ張られた。
「お前の口を、何度塞ぎたいと思ったことか……っ」
それは
仁王立ちする貴志の前で、わたしは洋風便座の上で縮こまった。
勿論、本当にトイレで用を足しているわけではない。
ただ椅子代わりに座っているだけだ。
貴志は溜め息をつくと、腕組みをして壁に寄りかかる。
「何か話があるんだろう?」
わたしはコクリと頷き、質問をする。
「貴志がもし知っているなら教えて欲しいんだけど……、どうしてわたしが第三王子の名前を知っているのがおかしいの? 子供だから?」
貴志は「そこからか……」と言っている。
「第三王子は生まれてすぐに教皇候補として神殿入りしている。神官は滅多なことでは真名を明かさない。呪詛に用いられると厄介だから、という話だが真偽のほどは分からない」
なるほど。でも―――
「貴志は、真名を知っていたんでしょう?」
彼は「ああ、知っていた」と肯定する。
「ラフィーネ王女が、神殿にいるという弟の第三王子の名前をよく口にしていたからな。『弟の名前は
貴志曰く、呪詛云々についても王女情報だから本当のところはよく分からないが、事実なのかどうか知りたくて祖父に確認したところ、『絶対に口にしてはいけない』と注意を受けたようだ。
(そうか、彼の名前は、国家機密級の秘密情報だったのか)
彼らが驚愕していたことを思い出し、胃が痛くなる。
わたしも貴志に伝えなくてはいけない情報を開示する。
まず一つ、十年後にラシードが日本に留学してくること。
その時点での専攻楽器はピアノだが、今は何故かバイオリンを習っていること。
もしかしたら、貴志や兄や晴夏の、その時点での想い人となる女性を巡るライバルになるかもしれないこと。
そう伝えると、貴志は徐々に表情を曇らせて、その瞳に複雑な光を宿らせる。
ひどく傷ついたと訴えかける眼差しに、こちらも身を切られるような思いを味わう。
わたしだって、こんなことは言いたくない。けれど、それが本来あるべき筈だった未来なのだ。
でも、今は感傷に浸っている場合ではない。
貴志も、わたしがこれから何か大切なことを話そうとしている様子を察し、何も言わずにただ黙し、次の言葉を待っている。
ここで伝えるべきことは、教皇聖下と第三側妃の運命。
そして、それを発端として起こる、ラシードを苛む未来だ。
「十年後、第三側妃とエルは―――既にこの世には、いないの……」
貴志が静かに、わたしの目を見つめる。
「ラシードが十歳を迎えた当日、第三側妃はやむを得ぬ事情で公務を優先するの。それが、母親からの愛情を信じられずにいた彼の心に、決定的な杭を穿つんだけど―――この後すぐに、ラシードは十歳の祝いに与えられた離島の屋敷見学と称して、近侍のみを伴って家出しちゃうの。彼の出奔に気づいたシェ・ラ・シエル王子殿下が第三側妃を伴って迎えに出るんだけど―――彼らの乗ったセスナは、海洋上で消息を絶つ……」
そしてラシードは、自分の浅はかな行動がなければ起きなかったであろう悲劇を悔い、懺悔の日々を送るのだ。
その苦悶を
留学先の愛音学院にて、彼に救いの手を差し伸べてくれる『主人公』と運命の出会いを果たし、心の傷を癒やしていく。
それが本来あるべき『この音』のシナリオ―――いや、彼らを待ち受ける悲劇だ。
(……そうだ)
彼がピアノを弾き始めたのは、シェ・ラ・シエル王子が好んで弾いていた『あの曲』を奏でたかったから。
その曲を爪弾き、兄の魂を慰めようと―――散華の代わりに、哀悼の音色を捧げるためだ。
ラシードが、心を許した『主人公』の前でピアノの演奏をした時、語られた内容が脳裏によみがえる。
『兄は、自分が若くして命を落とすことを知っていた。それでも彼は、国民の幸せと安寧を願い、様々な改革を打ち出し、実現して行ったんだ。彼の生きた軌跡は、今でも国民の心に刻まれている。おそらく彼は、自分が去った後も、誰かの心の中に在れたら、それで良いと―――そんな思いで日々を過ごしていたのかもしれない』
俺様強引系の我が儘王子だと思われた彼が、その心に抱えた苦悩と
その事実にどうしていいのか分からなくなり、親密度を上げることができずに一巡目はBADエンド一直線だったのだ。
もし伊佐子の責任で、尊と母が儚くなってしまったら―――と、ラシードの立場を自分に投影してしまい、かなり動揺して落ち込んだことを思い出す。
わたしは、エルが額づいた手の甲にそっと触れた。
彼がホッとしたように零した言葉が、耳の奥で何度も再生される。
『見つけた―――レディ真珠、やはり貴女だった。わたしの『天命の女神』』
エルは、わたしを探していたのだろうか?
でも、何故?
何のために?
沈むこの心に気づいた貴志が、その手を伸ばす。
彼のひんやりとした手がわたしの頬に触れ、気遣わしげな瞳が双眸を覗く。
わたしは目を逸らすことなく、貴志を見つめ続けた。
彼は、その後、深い溜め息をついて、微かに笑った。
「お前の考えは―――分かった。致し方ない……」
わたしは言葉には出さなかった。
けれど、貴志は理解してくれた。
「貴志、大丈夫だよ。エルだけに……伝えるつもり。彼は多分、わたしの中身が子供ではないことを知っているような……気がする」
すべてを見透かすようなエルの黒曜石の瞳が、脳裏を掠める。
「『天命の女神』―――か……」
貴志が、ポツリと呟いた。
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